自分は何と戦っているのだろう

 先日発売された”Number”というスポーツ雑誌は、表紙が池江梨花子選手で、彼女とスケートの羽生選手とのリモート対談が載っているというので、楽しみにして朝コンビニに買いに行ってきました。白血病の苦しみを乗り越えた池江選手と、怪我を乗り越えて戦っている羽生選手は、試練も応援の力に変え、ただ勝利のために突き進むエネルギーを常に持ち、何よりも泳ぐことやスケートをすることが大好きであるというような一致点が多く、似たもの同士だなと読んでいてほほえましくなりました。

 オリンピック開幕直前特集ということで、体操の内村航平選手、卓球の石川佳純選手、バトミントンの桃田賢斗選手など興味深い選手の記事が並び、ページを次々めくっていたら、水泳の萩野公介選手の「自分は何と戦っているのだろう」という言葉が目に入りました。萩野公介選手と瀬戸大也選手は切磋琢磨して戦っていた好敵手同士だったのですが、自転車事故で腕にケガをした荻野選手はスランプに陥り休養してしまうし、瀬戸選手は不倫騒動でマスコミに叩かれしばらく謹慎していたし、なかなか人生は思う様にいかないものだと思っていました。

 でも、この萩野選手の記事は平井伯昌コーチの”目標と目的”を、取材のテーマの一つにおいてほしいという提言もあり、他の選手の記事と違って、何か重苦しいトーンが漂っています。生後六か月のベビースイミングで水泳に出会った萩野選手は「気づいたら身近にあった」という水泳にのめりこみ、各年代の日本記録を次々に塗り替えていくうち、勝利はいつしか当たり前のものとなり、それでも自分に対して少しの許しも与えず、ただ速さだけを追い、練習し続けました。17歳でロンドンオリンピックに出場し銅メダルを獲得したのですが、それ以後彼を指導する平井コーチは当初から彼に精神面の危うさを見ていたと言います。練習の虫で、何でこんなに努力ができるのかというくらい、まるでロボットのように練習に打ち込む姿を見ていて、期待されているからやらないといけない、彼は萩野公介という水泳選手を演じているのではないかという疑念を持ち、目指す先に自分の意志がない限り、必ず揺らぐ部分が出てくると指摘していたそうです。

 萩野選手は肘の手術をしてからスランプに陥り、崖から転げ落ちるように記録は下降線をたどり、初めて涙をこぼして水泳が辛いと弱音を吐き、三か月休養して海外を旅しながら、自分は何と戦っているんだろうと自問自答し続けました。過去の栄光、高い理想、そして周囲の期待、余計なものから影響を受けてシンプルじゃなくなっている、そうさせたのは自分だった。心の奥底にこびりついていた見栄やプライドに気づいたことで、ようやく自分の泳ぎに集中できるようになり、迷いがなくなったのです。周りの目を気にせず、嘘偽りなく生きられるようになった。東京オリンピックで彼が目指すのは、結果という目標だけではなく、自分の持てる力を出し尽くし、自身の生き様を示すという目的を達成したいという。

 エリート教育はスポーツ界でも当たり前で、小さい時から頭角を現す子供たちは、才能に恵まれ萩野選手のようにひたむきに努力すればトップ選手に躍り出ることも可能です。でも、平井コーチが精神のもろさを彼に感じたように、何も考えずロボットのように努力した選手にはオーラがない、何かに感動し、身を震わせるような歓喜や、どん底にまで落ち込む絶望や苦しみを、味わったことがない。想像力の欠如を一番感じてしまうのです。

 コロナ禍の中で、オリンピックが開催されようとしています。何のために戦うのか。選手の目的も目標も五輪関係者には関係なく、自らの利益のみを追い求め、その庇護のもとでロボット化してしまう選手もいる中で、ひどい病気にかかり死ぬほど苦しんだ池江選手は、もうそれを乗り越え、新しいモチベーションにし、人とつながりを求め続けています。感染者は増え続け、色々なことがめちゃめちゃでこれから何が起こるかわからない状態でのオリンピックは、見方を変えれば、人間の本質がはっきりわかるまたとない機会のような気がしています。私利私欲のため、危険な場所なのに居座り続ける権力者は、そこが危ないとわかった時どうするのでしょう。ローマのコロッセウムでライオンと戦う剣士を見ていた王は、立場が逆転して衆人環視の中で自分が素手でライオンと戦わなければならない場所にいることに、気が付く。オリンピック会場には世界中の権力者のみが集え、一般人は立ち入り禁止、そこで流される音楽やパフォーマンスを見て、私たちは何を思うのでしょうか。

 私達日本人は同質の環境の中で、同質の人々が集い、宗教も民族もアイデンティティも考えず、感じず、平穏無事に暮らせればよいし、真面目だから何も考えず打ち込むのは得意でした。そこに才能があれば、荻野選手のようにあっという間に頂点にたどり着けることもできます。ただ優れた指導者たち、水泳の平井コーチやシンクロの井村コーチは、意志や感情がなくロボットのように頑張る若者を見て、その空虚さが命取りだと警鐘を鳴らしているのです。「どれほどの深さで自分の音楽がお客さんに届いているか、どれだけ心をつかんでいるか、どれだけ集中しているか、音楽家の使命とは、聞く人の心を刺激して、その中へ入っていくこと。各自が生まれつき持っているものと磨き直されて補充されてなお上に向かって行くものがないと、貯蔵されたものはいずれなくなってしまう。」ある音楽家の文章ですが、オリンピックに出るということは、自分の持てる力を出し尽くして、自身の生き様を示すという目的を達したいという萩野選手は、自分の中に何が必要かということがわかったのでしょう。

 勝負事は本当に大変です。逃げたくなるし、キリがない。でもそれが好きで、必死で練習し戦っている人達に共通の感情、それは何かに対して、いつも誠実であるということしかない気がしています。

 2021年の夏は、世界が華麗にひっくり返る下剋上サマーとか、無形財産としての知識をどれだけ蓄えられるかが鍵になってくるそうです。

 私は私をみています。

 私は世界をみています。

 私は世界を動かします。   こんな気持ちで、オリンピックをみられるのは、幸運なことなのでしょう。