歩いても 歩いても   Still Walk

 小学生にもコロナ感染がひろがっているようで、お子さんを連れて夏の着物の帯結びをやりたいと予約してきたお母さんから、子供二人がコロナにかかってしまいましたとラインが来ました。本当に気を付けなければならないので、しばらくじっとしていますが、おととい日本映画やアニメが大好きなアメリカのエリックとフィルに、私の夏着物の写真や、エヴァンゲリオンの手拭いの写真を送り、今彼らはどんな日本文化に興味を持っているか問い合わせて見ました

 黒澤明、小津安二郎、山田洋次などの映画が好きなエリックは、濃紺の絽の着物の写メに反応してきてカッコいいと言ってくれ、日本人以上に日本文化に強く魅かれる様で、不思議な気がしていますが、新海誠監督の「君の名は。」「天気の子」是枝裕和監督の「歩いても歩いても」を見て、感激しているとのことでした。寅さん映画が大好きなフィルは、また日本へ来ることがあれば柴又を訪れたいといっているけれど、でもそんな日がまた来るのかと悲観的になるし、閉めているお店も多くて、もはや昔の面影はなくなってしまった柴又を、案内できるかと疑問に思ってしまっています。

 新海誠監督の ”天気の子”は、混沌とする現実世界の中で一番大切なのは、自分が何を望むかということ、自分がもがき苦しむ時でも、誰かが知っているだけで大丈夫、人はそれだけで困難に立ち向かえると励ましてくれるというのです。天気は単なる自然現象ではなくて、思いや運命や世界そのものの象徴であり、誰もに身近な天気のように、みんなの物語だという意味がある。狂った世界でも生きて行くための支え、希望、光のような存在なのです。世界とか、最大多数の最大幸福よりも、自分自身の幸せをもっと追い求めていいんじゃないか、現在の「狂った世界」に対する責任を肩一つに追うことはない、という未来を担う若者に対する新海監督の渾身のメッセージです。夏の積乱雲を見て、次回の映画は天気の話にしようと思った監督だそうですが、私も積乱雲を見ると、中学時代、学校帰りに橋を渡りながら青い空の積乱雲を見て、これからどうやって進んで行けばいいのか悩んだ記憶があります。高校受験の不安と、そうやって懸命に受験勉強することが何につながるのかわからず、勉強することが今も好きだけれどそれが単なる手段になってしまういら立ちを感じ、みんなと同じことをするのに、猛烈な違和感を感じて居た気持ちを、積乱雲見ると思い出します。

 結婚して子供ができてからは自分の事は考えずひたすら子供たちの未来を考え、悩んできました。今考えてみると、あれこれ悩んでさまよっていた若い私を、両親はどんなに心配していたのかとわかります。でも、コロナ禍の混乱は、世間一般の道とは外れても、自分自身の幸せや自分が何を望むかということを大切にしなければならないことを、そっと教え、励ましてくれているような気がしています。”歩いても歩いても”の映画は、不安定な家族のありふれた断面を切り取ったものなのに、なぜアメリカ人のエリックが魅かれるのか不思議ですが、これだけ世界が混乱してくると、家族間の気持ちの行き違いや違和感は、たいしたことがない気がしてくるのです。でも確かに、家族を持って生きて行くということは、ただ歩き続けていくことだし、歩いても歩いても、先は見えないから、ただ歩き続けるしかないのです。

 たまたま「歩いても歩いても」のレビューを見ようとクリックした画面の端に、今度公開される「アウシュビッツ・レポート」というスロバキアの監督が作った映画の予告が出ていて、それを見て私は衝撃を受けています。2021年、世界がコロナウィルスによって歴史的なストレスにさらされている中で、第93回アカデミー国際長編映画賞のスロバキア代表に選出された「アウシュビッツ・レポート」は映画ファンが現実逃避や気晴らしのために見るような娯楽作品ではないけれど、著名な哲学者ジョージ・サンタヤーナの名言「過去を覚えていない人は、過去を繰り返す運命にある」が引用されるイントロダクションはすべての観客の関心を引くはずだと言います。第二次世界大戦中の1944年、ユダヤ人が収監されたアウシュビッツの強制収容所で、過酷な労働を強いられて殺害される人々の遺体記録係をしている二人のスロバキア人が、ナチスドイツによる、その残虐な行為の証拠を持ち出し、有力者に届けるために脱走を企てるのです。協力した仲間たちは執拗に拷問されるのですが、奇跡的に救出されたスロバキア人の二人は赤十字職員にアウシュビッツの実態を告白しレポートとして提出し、12万人のユダヤ人を救うことができたという実話なのです。

 寛容、平和、人間性などの価値観を理想とする現代社会に生きていることを肯定するために、ホロコーストのような重いテーマについての映画を見るのではなく、むしろ、その残虐行為と地続きの世界で同じ空気を吸う私たちが同じ過ちを繰り返さないよう、それを覚えておく道徳上の義務があることを、再確認するためだと言います。「悲劇はまだ終わっていない」

 オリンピックの演出家が若い頃ホロコーストをネタにしたことがあるとか、作曲家が障害を持つ同級生に陰湿なひどいいじめをしたということで、直前に辞任や解任させらたのですが、「アウシュビッツ・レポート」の中で脱出に協力した仲間たちに対するひどい拷問、特に沢山の人達が地面の中に頭だけ出して埋められ、片っ端から棒で殴りつけられたり、馬をその頭の上で走らせてみんなを殺していくシーンを見ていると、何でこんな映画が今でもたくさん撮られ、上映されるのかと苦しくなります。でも、これは私が生まれる10年前の話、本当に身近なことだし、これ以前もこれ以後も、人間の残酷な殺戮はずっと続いています。私たちは何をしなければならないのか。特にコロナウィルスの脅威におびえ始めている今、人間の悪意や残酷さがこれと一緒になったらどんな恐ろしいことが起きるかわからない、無差別に感染するコロナウィルスを、埋められて殴られるよりもっと恐ろしいと感じるのなら、人間は初めて自分のしていることがわかるのかもしれない。

 人間の善と悪がわかりやすく描かれたアニメ”鬼滅の刃”は、一人の漫画家の想像力から生まれたものだとしても、人間悪を鬼として捉え、戦い続ける若者たちの壮絶な姿を見せ続けているのです。オリンピックで戦う20才前後の若者の鋭い眼光と闘志、それに比べ権力と金欲に目のくらんだ上層部の人間たち、いくらワクチンを打ったとしても、コロナウィルスは形を変えてまたおそってくるかもしれない。

 50年前に私が橋の上で見た積乱雲は、50年かけて、私に自分という存在の輪郭を掴むことの大事さを教えてくれました。自分がどうありたいかを決められるのは自分だけで、周りにどう思われようと誰かに見下されたとしても、自分が自分であることを思い切って選択する時、その時初めて自分の夢は実際に叶う方向に進む、なぜならその時、自分は主体性を取り戻し、エネルギーを自然に放射して、勝ちを想像できる自分に生まれ変われる。子供たちが今だに模索しているのを見ていると心配で、いろいろ思い悩み、私の資質がこんなだから子供たちもより悩むのではないかと考えていたことが、今やっと積乱雲を見て、吹っ切れました。自分らしく歩み続けていないと、いつかまた残虐な日々が訪れた時、悪を行う資質に取り込まれてしまうのです。戦い続けるためには、健全な価値観を持ち、大事なことを勉強していくことが必要です。

 久しぶりに鬼滅の刃の煉獄さんの言葉を思い出しました。「胸を張って生きろ、己の弱さやふがいなさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け」何があっても、私たちはもう加害者になってはいけないのです。アメリカのエリックがメールで教えてくれた色々なことが、私にとって新しいエネルギーとなりました。