聖火台の意味

 「太陽の下に皆が集い 皆が平等の存在であり 皆がエネルギーを得る」これは野村萬斎さんが作った、東京オリンピックの聖火台のコンセプトです。使われている燃料は、東日本大震災からの復興が進む福島県の施設で製造した水素エネルギーで、水素を製造するための電力はすべて太陽光発電でまかなわれているのです。そこで輝く炎は、太陽のエネルギーそのもので、太陽のイメージに加え、植物が芽吹いたり花が咲いたり、空に向かって手を大きく広げたりといった、太陽から得られるエネルギーや生命力を表現したもので、薪をくべたようにゆらめく炎が描き出されるように、繊細で根気強く様々な工夫を凝らして作られたのだと言います。この聖火台は日出ずる国、ニッポンの精神性と技術力と美的センスをアピールし、東日本大震災からの復興という日本にとっての五輪の意義を象徴するものだったのです。

 2018年9月1日に、開会式閉会式の演出をするという野村萬斎さんについて、私は「エッジ・オブ・シルクロード」というブログを書きました。<古来、文化は侵略されると否定される運命にありましたが、日本というエッジには大陸を通って様々な文化が集積し、それ以前の文化を否定しない立場の歴史をたどり、しかも日本に集積した文化は発酵し、独自に洗練され、神事や祭事を超えて、能、狂言のように芸術的昇華を遂げたのです。野村萬斎さんは東京オリンピックに向けての全体のコンセプトをたてるなら、シルクロードの端っこにいる日本はとんがった先鋭的な位置にいるから「エッジ・オブ・シルクロード」ということを考えているというのです。いろいろなものを対外的にアピールするには、特にオリンピックの開会式では、世界を知り、自分の特性を見極めることが大事で、内と外からの目線で己の座標軸を明確にした上で、文化的特質をどう打ち出すか、日本人のアイデンティティにまで踏み込んで、日本はどういう国か考え、本質を見極め、決断し、どう実行するか考えているのです。萬斎さんは伝統芸能の内部の人間として己を知りながら、世界に対してどのように自己発信すべきか考え続けている先鋭的な人で、イギリスに留学してシェークスピア劇にはまった上で、能、狂言の手法で何ができるか考えているし、能の創始者世阿弥はただ芸が出来るだけでなく、古今東西の故事来歴も思想も文学も、あらゆる知識を繰り出さすことができたし、シェークスピアも口承されてきた物語やことわざをその戯曲の中に注ぎ込んでいたから、彼の芝居には集団的な英知がいったん凝縮されて、そこからまた広がっていったのです。

 能の根本は供養で、その時代で最も弱い人間、非業の最期を遂げたもの、深く傷つけられたもの、周囲に排除されたものをもう一回再生して蘇らせ、引き上げるのです。世阿弥には優しい素朴な世界、敗者に対する惻隠の情、供養の気持ち、鎮魂、復興、再生、癒しがあります。>こういうことを全部ふまえた上で、萬斎さんがどんな開会式を作り上げるのか本当に楽しみでした。

 ところがその後コロナウィルスの蔓延により、オリンピックは延期され、今年になっても開催されるか危ぶまれている中で萬斎さんは現場から離れて辞任してしまいました。それから沢山のゴタゴタ劇が始まり、演出者も変わって結局誰が作ったものかわからない中途半端な開会式の中では、東日本大震災からの復興というメッセージも全く聞かれなかったし、開会式に灯された萬斎さんこだわりの聖火台に対しても、何の説明も心をよせる言葉もなかった。でも、今回もし、萬斎さんが演出に携わったとしたら、それはそれで大変だったかもしれません。思い通りのことが出来たかわからないし、それが皆に受け入れられたか見当がつかない部分もあります。異分野の人達が一つの物を作るのは難しいし、批判するのは簡単ですが、統一したものを作るのは至難の業です。

 結局責任者が誰だかわからず、顔が見えない演出者が作り上げたものは、顔が見えないまま終わってしまいました。次は北京、三年後はパリだというけれど、地球温暖化の影響はすさまじく、ギリシアでは大規模な山火事が起きているし、日本も含め世界中で猛暑や大雨、洪水も起きていて、これからもっとひどくなると予想される中、夏休みもどこも行けずコロナ感染者も激増している中、私たちはどう心を保って行けばいいのかと思ってしまいます。

 神様は、この世に在る邪悪なものを直接取り除くことはなさらない。人が自らの闇を浄化して、光を育て、その光が闇を滅していくと、お母さんが言っていたという文章を読みました。太陽の光は平等に人々に降り注ぐし、災害も等しくみんなに襲い掛かるけれど、いろいろ考え試行錯誤し、自分の闇を浄化するため、光を育てるため、その光が闇を滅するため、何かを表現しようと努力し続けることしかない気がしています。