桂枝之進さん

 若き落語家の桂枝之進さんは、たまたま娘が関わらせていただいたSNSドラマの監修をしていらした方で、童顔の可愛い20才のお兄さんなのですが、いろいろ調べて見たらユニークで優秀で、私は驚いてしまいました。彼はZ世代(1990年後半頃から2012年頃に生まれ、学生時代からデジタル機器やインターネットに触れてきたデジタルネイティブであり、さらにSNSネイティブ、そしてスマホネイティブ)のど真ん中に位置していて、この世代はスマホ一台あれば情報収集やショッピングのほか、読書や勉強、ゲームネットバンキングから就職活動までなんでもできてしまうため、逆にそれ以外のテレビや本雑誌といったメディア離れが進んでいるとも言われています。ただここには、2007~2010年の世界金融危機を見て育った層も含まれ、消費には消極的だともいわれますが、自身の価値観で「良い商品・サービス」だと判断すれば支出を惜しまない世代で、モノよりも体験・経験に消費する傾向もあります。そしてダイバーシティ(多様性・色々な種類や傾向があり、変化に富んでいること)とインクルージョン(社会を構成する人達には性別や人種、障害の有無など様々な背景があることが前提であり、誰も排除されるべきではないという考え方に基づく社会の事)を重視するのだそうです。

 枝之進さんは五歳の時親に連れられて近所の市民ホールに行き、そこで聞いた落語が好きになって、それからテレビやラジオで落語を聞きまくり、定期的に落語会へ行き、小学校の図書室で落語の速記本を読むようになってからは、徐々に自分で落語を演じることに興味を持つようになったと言います。学校の行き帰りで友達に聞かせたり、親戚の前で演っていたりすると次第次第に活動の場が広がり、気付いたら学生落語の全国大会やテレビ番組に呼ばれるなど、落語を介して社会との繋がりができて行きました。自分は落語を演っているだけなのに、それがキッカケで新しい場所や環境に連れて行ってくれる、いつしか落語は自分の可能性を広げてくれる欠かせない存在になり、またその状態にいることに心地よさを感じていた彼は、中学時代も落語会にひたすら通い、自分の活動でも全国ツアーやポーランド・フランス公演を敢行し、映画・音楽・小説と触れられるだけのカルチャーに触れ、密度の濃い時間を過ごしていたというから、そのエネルギーには圧倒されてしまいます。フランスで「寿限無」を披露した時は「Il était une fois、昔々、un petit garçon、男の子が、」みたいな感じで、フランス語と日本語を同時通訳で覚え、フランスの高校生が並ぶ会場に着物を来て出て「なんだこれは!」と驚かれたのですが、講演後「凄い面白かった」「フランスにも似たような芸能があるよ」と反応を貰い、寿限無寿限無のくだりはラップのように感じてもらえたようでした。

 そして、15歳で三代目桂枝三郎に弟子入りし、桂枝之進となり弟子修業が始まるのですが、師匠には「枝三郎600席」というライフワークにしている落語会があって、昔の資料から落語を再構築し、誰も演じていない噺を披露していて、いつも違う演目の落語会は面白くて、その公演に足繫く通ううち、終演後に話をさせてもらうことも多くなり、枝之進さんのYouTube動画を見てアドバイスして下さることもあったそうです。入門後の稽古は、一対一の空間で座布団に座り、向かい合って「三べん稽古」という形で師匠がまず三回やって、その後に弟子がやるのですが、三回聞いたくらいではできないのを何回も繰り返し、一か月で一つの話が終わると、次の一か月はまた別の噺を始めるのです。稽古をしながら社会人としてのマナー立ち振る舞いを覚え、必死でついていく中で、ふとした瞬間自分の将来を考える時があり、これから一生背負っていく落語家としての役割はなんなのか、また自分の目指すべきベクトルはどこにあるのか、社会の中の職業としての落語家像を模索するようになりました。

 落語家の中では最年少として取り上げてもらえるけれど、裏を返せば若い世代が極端に少ない現状、将来の落語会を描いた時、同世代へのアプローチが急務であることは明確でした。今まで落語に支えられてきた自分が、今度は落語会の未来にアクションを起こそうと、SNSでの発信や新世代的な立ち位置を意識した活動を始めました。積極的なメディア露出や同世代向けのイベントなど、少しずつ活動の幅が拡がると同時に、SNSを通じてそれぞれ何かの肩書を持って戦っている同世代と繋がる機会が増えてきましたが、それは今まで落語ばかりやっていた彼にとっては刺激的で、領域は違えど切磋琢磨できる仲間との出会いがあり、関係性を深め、利害関係を超える世代間のコミュニティが形成されていきました。彼のやりたいことは、同世代に対しての導入設計を考案し、実践することで、いろんなところで落語と触れる仕掛けを作っていけたらいいなと思い、SNSアカウントを作成し修業中の様子や訪れた場所を発信すると、いろんな方と知り合い、同世代にアプローチできるような仕事がもらえるようになりました。

 でも2020年3月、新型コロナウィルスが日本でも流行の兆しを見せ、落語界はいち早く自粛ムードが広がり、自宅待機を余儀なくされて、スケジュールは当面白紙で、未曽有の事態に何をすることが正解か、はたまた正解を追うことが正解かすらわからない状況下、枝之進さんはのちのZ落語最初の規格となる5G落語会というプロジェクトの企画書を書き始めました。Z世代にとって「落語はどんな存在になれるだろうか」をメインテーマに掲げ、古典的なイメージが強い落語も漫才やコントと同じ日常的なエンターテイメントの一つで、予備知識を必要としないので、日常生活の娯楽として自然体で楽しんでもらいたいし、古典落語も400年の期間、脈々と受け継がれているもので、人間として生活する上でのものが全て詰まっているところに、落語のすべての魅力があるのです。「温故創新」をモットーに、古典的なイメージの強い落語を、新しいカルチャーとしてZ世代に伝えたい。同世代のデザイナー、カメラマン、エンジニアなど才能を持ったクリエイターとともに、落語の新しい可能性を探求する「Z落語」というチームを作り、Z世代が持つ多様なアイデンティティの中に、一つまみの上質な文化を提供することを始めました。始発点の分からない流行も楽しいけれど、自分達の中に覚える懐かしさや落ち着きを、今見つけてみても良いかもしれない。変化の激しい世の中、読めない先を読むために、いつの時代も変わらない本質的な価値を考えていこうとしてます。

 同世代で、15歳で決済サービスの会社を創設した山内奏人さんとの対談を読んで面白かったのが、「学校では勉強も運動も飛びぬけてできるわけではなかった」ので、クラスのヒエラルキー(スクールカーストともいい、学校の生徒内で構成される権力の階層構造のことで、容姿や運動能力といった生徒本人の資質が一般的)には入れず、自分の価値や存在意義を問ううちに、学校ではない外の世界に自然と目が向くようになったという山内さんと、学校の終わりくらいに不登校になり、なんとなく引き籠っていたのだけれど、学校以外の社会に出ていく理由が必要で、それが落語だったという枝之進さんなのですが、常々思うのは、戦う相手は他者ではなくて自分だということ、どんな世界観を描き、どんなプロセスでどう実現・達成していくかが大切で、何を選び、何を選ばないか、同世代と比べるというより、やはり自分と向き合っていくことが大きいと、山内さんは言います。

 どんなにいい大学に行こうとも、どんなにいい会社に就職しようとも、そういうことはあまり関係なくて、自分が置かれた環境下で何をして何を得るかの方が大事なので、みんなが気にする偏差値とか世間一般的なルールより、自分が幸せだったらいいし、自分がやりたいことができていたら一番いいではないか、自分が思い描く生き方を遂行することが大切だし、とにかく自分との対峙を大事にするために、もっと勇気を持ってもいいのかなと彼は言うのです。会社の中に人とコミュニケーションを取りながらも、自分自身を見つめ直せる現代風の茶室を作ったのは、意識的に自身の存在意義を問う時間や場所をつくることは、自分自身の人生を歩んでいくうえでとても重要で、忙しい日々の中でも自己と対峙して何かを見出せる、意識的に余白を作れる場所を設けたかった・・

 これが二十歳の男の子たちの考え方ということに唖然とするのですが、コロナ禍の今、先の見えない不透明で危険な世界を生きて行く者にとって、一番大事なことなのです。山内さんが言っていた「ヒエラエルキーの中に入れなかった」という言葉は印象的で、私はそこから出ていく意思決定は五十年前にしたのだけれど、その意味や価値がわからないまま年を重ね今に至ったのに、なぜ若い世代が早々理解しているのだろうと不思議に思うのですが、それにしても私たちがコロナ以後に気づいたことを、若い彼らはその前にとっくにわかっているのでした。危機意識が強い?デジタル世代だから?より情報が入るからではなく、資質なのかもしれないけれど、将棋の藤井聡太さんもAIを駆使して色々な読みを深めながら、最終的には自分の感性と知能と意思決定で、将棋を極めようとしているのです。彼にはコロナ禍も関係なく、ただマスクをして、自分が思い描く将棋を淡々と打ち続けています。

 戦う相手は他者ではなく、自分だということを、序列主義の学校では教えてくれなかった。コロナや気候変動による災害を生み出したのは、ヒエラルキーの世の中だとしたら、コロナで学校の価値や意義が薄れている今が、本当の価値や生きることの意義を考えるチャンスなのでしょう。それにしてもこの二十歳の若者の対談の中にこれから生きていく上での指針が示されているのです。