風立ちぬ

 子供の頃パイロットになりたいと思っていた夫は、視力が悪かったから諦めたそうですが、この前テレビで放映された宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」でも、主人公の堀越二郎さんは小さい時から眼鏡をかけていたので飛行機の操縦士にはなれず、設計し作る側に回って、最後には零戦を完成させたのでした。私は映画が放映されていることに途中から気が付いて録画したので初めの方を見ておらず、ネットでこの映画の解説を探していたら、微に入り細に入り熱く説明して下さるおじ様のサイトを見つけてずっと見ています。それにしても主人公の生い立ちや性格を分析して、だからこういう行動をとったと因果関係を説明されると、それが宮崎監督の考えだし思いだとは言うけれど、何かちょっと辛くなります。地方の素封家の家に生まれ、使用人もいた生活をしていたから、上から見下す目線に自然となるなどと解説しているけれど、そういうことはそれぞれみんなあることだから、たまたま目立った位置にいるからと言って、あれこれ詮索するのはいい気持ちがしないものです。

 自分の過去の行動を振りかえっても、何でこんなことをしてしまうのかと思うことばかりですが、それもいろいろな因果関係でそうせざるを得ない運命だとしたら仕方ないことで、ずっと後悔しているるよりも、何かやることを見つけたらそれに対して最善を尽くすように努力していくことが一番幸せなのかもしれません。戦闘機ではあるけれど、堀越さんが寝る間も惜しんで設計に没頭し、より軽くより速い飛行機を作ろうとしている姿は、ひたすら美しいのです。

 タイトルの風立ちぬの風とは、穏やかな風ではない。宮崎監督は「原発が爆発した後に轟々と吹く風がうわーって揺れている様子を見て、風立ちぬというのはこういうことなんだと思う」と語り、そんな恐ろしい風ならば、必死で生きようとしなければ簡単に飛ばされてしまうのです。堀越二郎さんが取り組んでいたのは、欧米の技術と伍する近代的戦闘機を作り上げるという課題なのですが、就職したての時、隼型試作戦闘機が墜落して失敗した理由を問われ、「問題はもっと深く、広く、遠くにあると思う。今日、自分は深い感銘を受けた。目の前に果てしない道が開けたような気がする」と答え、そしてこの道こそが近代化の道のりで、1935年、近代的戦闘機の九試単座戦闘機の試験飛行を成功させるのですが、近代化=モダニズムを求めていく二郎さんは「客観的合理的な思索力と慣例常識を打破する想像力」を持つ有能な人物なのです。

 この物語は、大正デモクラシーが退潮する転換期となった関東大震災から、太平洋戦争の終わりという「近代化の破産していく過程」の中で語られ、それはいずれ起こること、そして“近代化”によってて“決まっていること”として描かれています。「近代化(とその破産)」が大枠である以上、個人個人がどう思おうと「近代化の過程で戦争は起きる」という前提は変わらず、だからこそその大きな視点を際立てるために、人間の内面の葛藤や良心の呵責には関心を払わないで、そしてそのような状況をニヒリズムでもなく、露悪趣味でもなく淡々と描き出したのが『風立ちぬ』なのです二郎を「当時の時代の中で生きた人として描いた」というより、「敗戦という結果が出た現在から導き出される大きな視点の下に描いた」といったほうがふさわしい。ただし愛情を持って。そしてそのマクロとミクロのバランスが絶妙なので『風立ちぬ』はとても美しい映画として完成したのです。

 現実の未来は不確定で、それをよりよきものにするには考えたり、時になにかに抗う必要もでてくる。「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」伊丹万作さんの言葉ですが、コロナ禍の今の時代こそ、近代化の行きついた先に何があるのかがを、徐々に明らかにしていっているのでしょう。スノーボードとスケートボードで活躍している平野歩夢選手は、一日2~3時間は一人で考える時間を作っているというZ世代の若者なのですが、あえて大変な道を進みながら、「人はいろんな負荷がかかればかかるほど、身軽になるんじゃないか」「どれが正解なんてない、自分が何をしたいかだけだ」と、さらっと言ってのけます。SNSの世の中、あらゆる意見や批判も身軽になるための負荷と思える度量を持つ若者は、今も昔もたくさんいるのでした。