蘇るオーケストラ マエストロ チョン・ミョンフン

 コロナウィルスが蔓延してから、コンサートや観劇など、芸術鑑賞はほとんどできなくなり、携わっている方々も仕事がなくて、オーケストラなどは存続の危機に直面していると聞いていましたが、先だってテレビで見た東京フィルハーモニー交響楽団のドキュメンタリーでは、指揮者のチョン・ミョンフン氏が久しぶりに来日して、ブラームスの交響曲第一番(通称ブラ1)のリハーサルから本番までを撮影していて、魂溢れる演奏に至るまでのマエストロの誠実なアプローチには感動させられました。日韓は勿論、フランス、イタリア、ドイツを中心に世界中で活躍を続け、世界有数のオーケストラで音楽監督などの要職を務め、ピアニストとしてもすぐれているチョン氏は、あるインタビューで「昔から今日まで、自分自身が”困難”であり続けたし、常に自分自身と格闘し続けなければならない日々を過ごしてきた。うまくやれたと思えることがなかった」と語っていました。

 マエストロが見続けてきたのは、外にあるものではなくて自分だった、内なる自分と音楽の向き合い、そして自分の軸をずらさないこと。「僕はケミストリー(良い相乗効果)を一番大事にしそれには時間をかけて濃密な関係性を積み上げていくことが重要なんだ。己が一流を目指し続ける上では、先のことは考えすぎず今を突き詰め続けることで未来も開かれていく」と言っています。

 東京フィルのメンバーがマエストロに演奏の時注意されているのは、綺麗に縦線が合うと厚みが無くなり、ブラームスのシンフォニーにおいて致命傷になるので、厳密に縦の線を揃えようとするのではなく、皆が自然とアンサンブルに入れるような空間を作ろうと意識して弾くことなのだそうです。マエストロはピアニストでもありますが、彼の弾くピアノは特別で、ピアノの音のイメージの持ち方が根本的に違い、ピアノを弾いていてもピアノに収まらないオーケストラの音がするし、オーケストラを振っていても、オーケストラに収まらないくらい音のイメージがあるから、多彩な音色を産み出せるのです。ブラームスは私生活でも苦境を味わった人で、その葛藤が曲に表れている、だからブラームスの音楽は心の奥に入ってくるし、音に想像力のすべてをゆだねられる。その人の想像力次第で、音楽が変わってくるから、楽譜の奥にあるものを読むのが楽しいと言います。

 人間の体は髪の毛一本まで響きの媒体だから、自分の体も共鳴するということに、聴くという体験の醍醐味があり、それはコンサートホールでしか体験できないものです。心が飛翔するような音楽、エネルギーが解き放たれるような音楽を作るには、音に対する集中、感覚を深め、表面的な音楽ではなく深い、人間の心の底からの叫びや魂を込めなければなりません。例えばベートーヴェンの音楽は人間の全てを注ぎ込んだもので、人間の魂とか、神とか、天の声とかを感じながら、人々にメッセージが届くものを作りたいという気持ちがあり、ブラームスもそういうものをめざしていたんじゃないかと、東京フィルのコンサートマスターは言います。

 「私たちがオーケストラでハーモニーを作るときに何を拠り所にしているかというと、『気持ち良いか、気持ち良くないか』なんです。つまり、生物が生存本能として最初に獲得した快・不快という原初的な感情で、非常にシンプルです。自分の感覚にフィットしていれば気持ちいいし、そうでなければストレスになる。音を作るというのは、その気持ちいいかどうか、ハモっている、周波数が合っている、ということだけではなく『どんなサウンドを好むか、欲しているか』ということになるのです。これは、生き方とか、ものの考え方とか、そういうところが同じ、ということです。その根本のところでマエストロから受けた影響がとても強い。歴史上のことについて、我々は文字による情報で知ることが多いけれど、音楽には言葉にならない本質みたいなところが入っていて、そういうものを私たちはいま受け取ることができる。ブラームスは個人的な思いや自己矛盾などを音楽にしましたが、楽譜そのものには命がないけれど演奏者がもう一度命を与えると、まるでそこに人間らしさや温かみといった、生き物しか持っていないようなものに蘇らせられる。それがお客様に届いたときに、お客様が何かを感じたり、思ったり、演奏に対して意味づけをしてくれる。」

 こんなに語っているコンサートマスターも、コロナで演奏できない時期が長かったり、今でも不安になりながら演奏活動をしているのですが、その苦しんだ期間が長いだけ、より音楽について、演奏することについて考えることが熟してきたと言います。作曲家の想いにどれだけ近づけるか。自分が完全燃焼することで、聞きに来ている観客にも届くことができる、そして生きていることがいかに大変でも、今日より明日、もっとよくなろうと努力できる、それはベートーヴェンもブラームスもマエストロも団員も、そして聞いている人たちも同じなのでしょう。

 いつまで安全に暮らせるか、誰もわからない世の中です。一期一会の感動を味わったら、自分はどうやって還元していくか、すぐ考えないと、時間がありません。