帰属すること

 義母の認知症が急に進んできて、介護2から3にあげる区分変更を申請しています。昨日はショートステイで区役所の介護課の方と、私たちと義母と三者面談をしましたが、今まではコロナの影響でショートステイの内部の見学ができなかったのでちょうどよい機会で、スタッフの方も交えていろいろお話しました。

 私たちが今の様子をお話ししたところで、それまで別室で皆さんと女学生のように歌を歌っていた義母が連れられてきて、いろいろ介護課の方に質問されたのですが、驚いたことに義母の答えは「今は自分の実家に住んでいるけれど、同居している弟夫婦に迷惑をかけるから遠慮して、ショートステイに通っている」というのです。今の気候は?と聞かれ「五月で春です」「食事?はっきり言って美味しいと思ったことはありません」…そばにいた私たちは誰だかわかるかと問われ、間髪入れず「先妻の息子と嫁」だそうです。五十年一緒にいる夫も、三十年いる私も、義母の意識の中にはないのなら、フェイドアウトしても大丈夫の様で、私たちは義母の居場所を変える手続きをしようと思っています。

 多額のお金を弟夫婦に貸していた義母と妹さんたちと、弟さんの息子とのトラブルもやっと決着がつき、八割を返す代わりに兄妹、親戚の縁を切り、弟さん夫婦も施設に入れられたのですが、人間が最後に帰属するところとはどこなのだろう、何なのだろうと考えています。生まれも育ちも自分で選ぶことはできないし、運命とか宿命とかいっていろいろなことを簡単に片付けることもできないけれど、年を取って終末に向っていく時、自分の根本に在るもの、無意識に頭に浮かぶもののところに、帰って行くのでしょうか。人間の意識が帰属するところは本当はどこなのでしょう。 

 今年のノーベル文学賞はタンザニア出身のアブドゥラザク・グルナ氏で、難民として渡英した自らの過酷な経験と記憶に向き合い、過去に受けた植民地支配が人々に残したものを英語で書き続けてきた作家で、残念ながら日本語に訳された本はまだないのですが、21歳の時から書き始め、10の長編と多くの短編を発表しています。1948年イギリスの保護領だったアフリカ東部、インド洋のザンジバル島(現タンザニア)で生まれたグルナ氏は、イギリスからの独立後の動乱の中で迫害の対象となった社会集団に属していたため、60年代後半に祖国を離れてイギリスに渡ったのですが、そんな波乱に満ちた青春期が、居場所を見つけられず、アイデンティティーの混乱に直面させられる難民の運命を紡ぐ作風につながるのです。東アフリカ沿岸地域の歴史と人々の記憶が複雑に入り組んだ重層的な彼の小説は簡潔で美しい文体で書かれていて、植民地時代及びその後の世界を描いてきたポストコロニアル文学を代表する作家のひとりなのです。ポストコロニアルとは、植民地時代の後のという意味で、1930年までは地球の地表の85%近くが欧州列強による植民地化の対象とされたという歴史があり、英ブッカー賞の最終候補になった「パラダイス」という小説は、ドイツ帝国支配下の19世紀後半の東アフリカを舞台にした少年の<異なる世界と信念体系が衝突する青春と悲しい愛の物語>ですが、シェークスピアをはじめとする伝統的な英文学の影響がみられる一方、会話に母国のスワヒリ語のほかアラビア語やドイツ語などを交錯させるコスモポリタンな要素もあるのです。グルナ氏の本に繰り返し書かれているのは、植民地支配を受けた歴史と、移動を重ねて国と国とのはざまに立たされた人々の痛みで、表舞台には現れない普通の人々の小さな声を救い上げ、歴史を問い直そうとしているのです。

 ラオス出身でフランスに住む家族のゲストが二組来たことがあり、家族同士フランス語で会話していて、私とは英語だったのですが、少し早口にしゃべると、ママに「母国語でない言葉を話す時はゆっくり!」と何度も注意されたことを思い出しました。でも私にとって、アジア人の家族がフランス語で会話しているのにはどうしても違和感があり、英語で書かれたグルナ氏の小説もなぜ母国語で書かないのかと言われることもあるそうです。

 植民地という感覚が私にはよくわからないのですが、オランダ領だったアフリカの島国出身でオランダに住み、離婚して20歳の娘さんと着物体験に来たママも不思議な感じがする人で、二人で着物と雨コートを着て電車の座席に座り嬉しそうに笑っている写真を、チェコ人の奥さんと赤ちゃんを連れて着物体験に来た日本に住むアフリカ出身のパパがじっと見ていたことがありました。英語が話せるかどうかという問題ではなく、いかに色々な知識があり、その立場を感じることができるかということが問われていることは、ひしひしと感じています。だからノーベル文学賞を撮ったことでグルナ氏の小説もきっと日本語で読めるようになれば、彼の内面や植民地支配のことがもっとわかるようになると期待しています。本を読むのは小さい時から好きだったけれど、今こうやって知らなかった国の作者が書いた本を読むということは、今まで触れ合って来た沢山の国の、色々な宿命を背負ったゲスト達の感情を知ることが出来ると思うし、例えば外国人が村上春樹の本を読んで、この感覚、この感情は自分と同じもので、彼は自分の事を書いてくれたと思わせるのなら、自分の意識の奥深くに下りて考えていくことが、他人の意識の底につながるのかもしれないと考えているのです。自分の意識が帰属するところはどこなのだろう。今まで来たいろんな国のゲストの横顔を改めて思い出しています。そして何よりも、みな私の家にある着物を着てくれたことが私の強みです。その着物の記憶が、果てしない想像力の源になり、私の精神の核になってくれればいいなと願うし、そのためにまた頑張っていけばいいのでしょう。