とんがり焼きの盛衰

 十月一日に早稲田大学国際文学館がオープンしました。村上春樹さんが母校に委託・寄贈した執筆関係資料などを収蔵する施設で、通称村上春樹ライブラリーと呼ばれ、地上5階地下1階建ての建物は建築家の隈研吾さんが設計し、建築費用は早大OBの柳井正さんが全額寄付したもので、入館無料で誰でも利用できるのですが、なかなか予約が取れない状況です。 

 <学ぶというのは本来、呼吸するのと同じです>という正面に掲げられた村上さんのメッセージに出迎えられ、隈さんが「日常の我々が生きている世界に突然こことは違う時間が流れる、トンネル構造と私は勝手に呼んでいます」と語る、一階と地下一階を繋ぐ吹き抜け構造の「階段本棚」に象徴された木のアーチがかかったトンネルのような階段の両側には、約1500冊の関連書籍を収めた本棚が天上に向って伸びています。自分は子供がいないから、蔵書をどこかに寄贈したいと前に村上さんが言っていましたが、たとえ子供がいても受け継げるかどうかわからないし、管理するのも大変でしょうから、こうやって素晴らしい方々が春樹ワールドを作り上げ、そこへいつか訪問することができるなんて、ワクワクしてしまいます。

 

 「生と死」「日常と非日常」といった項目別に並んだ本を横目に階段を下りていると、意識下へと深く潜る村上文学の世界を体感した気になるのだそうです。「現実は目に見えている形に限らない」 館内には村上作品が外国語版も含めすべてそろい、大ベストセラーノルウェイの森も30冊以上あるとのこと、「異なる視点に触れることで、他者への想像力は育まれる」という新聞記者のコメントが、コロナ禍で内にこもりきりの私たちには強く響きます。

 村上さんが作家の小川洋子さんと、文学館に入ってすぐのトンネルのような、あるいは洞窟のような、建物のなかでいちばん印象的な空間で公開対談をしていて、自身にとって読者とは、洞窟のなかで一緒にたき火を囲み、自分の話に耳を傾ける人たちなのだといいながら、1983年発表の短編「とんがり焼の盛衰」を朗読しました。”銘菓とされるとんがり焼の新製品募集に応募した僕は、「選考」するのが「とんがり鴉(がらす)」であると知り、今後は自分の食べたいものだけを作ろうと決める。”というものですが、村上さんは「(79年に)デビューしたとき、文学業界は不思議なところであぜんとした。この小説は冗談めかしてはいるが、ほとんど実話です」と話しています。小川さんは「それからずっと食べたいものだけを続けてこられたのですね」と応じていました。(文壇の)主流の純文学から外れたところにいて、風当たりが強かったし、何回もノーベル文学賞の候補になりながらら、延々と受賞できないのですが、そんなことはどうでもいいのでしょう。それにしても、なぜ四十年近く前に書いたこの小説を今朗読するのかと考えていたのですが、とんがり焼きだけを昔から食べている特殊なカラスの一族が百羽以上いる部屋の中で、彼らが良しとするとんがり焼き以外は認めないし、とんがり焼きを食べる時も相手の目を突いたり肉を食いちぎったりして、すさまじい闘争を繰り返すのです。身体ははち切れんばかりにむくみ、目もなくなったとんがり鴉にとって、とんがり焼きか非とんがり焼きであるか、それだけが生存をかけた問題である、村上さんは小説を書き始めて四年目にもうとんがり鴉の存在を知っていた、それが好きならともかく、みんながとんがり焼きをとんがり鴉の嗜好に合うように作る必要が何処にあるのか、コロナ禍の今、村上さんはあえて自分のライブラリーでこの小説を朗読して、私達に改めて真実を提示してくれています。

 想像力というのは記憶。記憶が絡み合って想像力になる。そういう意味では大事だが、いくら経験を積んでもうまく組み合わせられない人は書けないという村上さんの文学は海外でも沢山の人に読まれ、ファンはこれらは自分のために書かれた小説なのだとみんな思うというのですが、私もそうだし、前に韓国のガールフレンドと来たロシア人の男性は、私が読んだことのない村上さんの短編「トニー滝谷」が大好きだと、熱く語っていたのを思い出します。

  コロナ禍の不安の中でずっと暮らしていかなければならない私たちにとって一番大事なことは何か。生殺与奪の鬼との戦いの前に、精神の核を壊され、自分の内部からドロドロ崩れていく、そんな義母たちを見ながら、今呼吸するように文学体感をしようという、村上春樹ライブラリーの空間が、タイムトンネルのように思えてきます。文学も技術だし、いい記憶も悪い記憶もそれらが絡み合って想像力になり、既視感のある物語となり、それが生きていく上での励みや慰めや、何かを作り出すきっかけになっていくのです。

 この世の本質はすべてエネルギーで、目に見えない波動が時間をかけて結晶化したものが、いま目に映っていて、自分が放った波動がまるで鏡写しのように世界からはね返っています。自分の魂にとって最も純粋な在り方とは、心の情熱に真っ直ぐに従うことであり、そこで生まれた行動力に愛という方向性を持たせること、個人の小さな情熱が社会を大きな変容に導く時だから、自分の道を堂々とつきすすむ時代なのです。内なる情熱に火を点けて、愛に満ちた未来に向かうこと。風の時代の今は、マイノリティ(少数派)がマジョリティ(多数派)をひっくり返す時代でもあるそうです。自分の選択を信じて突き進むことを、村上さんは朗読を通して教えてくれています。