ピアニスト舘野泉さんの再生

 65歳の時、フィンランドでの演奏会で脳溢血で倒れ、右半身が不随になったピアニストの舘野泉さんは、今年で85歳になられました。病気後2年くらいは体が動かず無為に過ごしていましたが、失意の日々でもなく、リハビリに励んだわけでもなく、ただ自分はいつか必ずピアノを弾くことに戻っていくであろうという確信があって、何もしていなかった月日を大事に過ごし、40年間続いてきた演奏生活を大切に想いながら、新しく踏み出す一歩を用意していたと言います。その後は左手だけで演奏を続け、弾ける作品を色々な作曲家に書いてもらい、今も全身全霊でピアノを弾き続けていらっしゃいます。

 今年のショパンコンクールでは若い日本人ピアニストの活躍が目立ち、それこそ戦略を練って、いかにしたら欧米のピアニストより深い重厚な音を出せるかとか、ショパンの足跡をたどり、その息遣いを表現できるかとか、悩みながら研鑽を積む若いチャレンジャーの様子を見ることが出来ました。英才教育と、才能と、資力と、情熱と、そして運もなければならないけれど、あまりに多くの熱意溢れる若者たちを見ていると、私は息苦しさも感じてしまうのです。水泳の萩野公介選手が「自分は何のために戦っているのだろう」と自問していたように、才能があればあるほど、それは苦しさにもつながるのかもしれません。

 舘野泉さんが四十年間引き続けたピアノの心を、病気後左手一本になっても、生きている限り保ち続けようとしています。2004年から再開した左手でのコンサートも、最近は右半身のマヒも進んできて歩行困難になり、車椅子でステージに出るようになったのですが、今度のコンサートでは、フィンランドの大家アホの新作「静寂の渦」と、平野一郎さんの「鬼の生活」という曲がメインの演目だったそうです。

 毎晩読んでいる村上春樹の「1Q84」という小説の中に、”人は自分の為には再生できない。他の誰かのためにしかできない。死ぬのは苦しい。そしてどこまでも孤独だ。こんなに人は孤独になれるのかと感心してしまうくらいに孤独だ。でもいったん死なない事には再生もない。でも、人は生きながら死に迫ることがある"という文章がありました。

 大阪では心療内科に通っていた患者さんたちが、60代の患者さんの放火により、沢山亡くなりました。お世話になっている青戸の着物やさんの近くで、歩いて居た女性が突然後ろから包丁で刺されるという事件もあり、一歩間違えば自分もその場所にいたかもしれないという恐怖がつのります。でも、私は犯罪を犯したのは、その人間ではなく、村上春樹の世界観でいうなら、イデアなのだと思うのです。コロナ禍で、末世で、閉塞感に耐えきれず、心の弱い個人の人間が、心を病んでいるから病院に行って直してもらおうとか言う問題ではないのです。病院に行って直せる問題ではない。才能ある若いミュージカル女優さんが、転落死して主演を務める公演中に亡くなって、びっくりしたのですが、ニュースの最後に「悩んでいる時はここに電話して下さい」とテロップが出ました。電話して、悩み事を聞いてもらって済む心の闇はあるのでしょうか。

 

 またコロナ感染が広がりつつあるし、気候変動の影響で、今年はかなり寒い日が続くということですが、今までになかったような猛暑も極寒も、みんな自分の蒔いた種なのでしょう。舘野泉さんは70年以上前の中学校時代、自分の家には電話もラジオも蓄音機もなく、隣家のラジオから流れてくるシベリウスの晩年の交響曲「タピオラ」を聞いた時、深い森が地球の果てまでも続く、永遠の沈黙を感じ、その瞬間がいまだに鮮明に聞こえてきて、そういう音楽を今、自分が弾きたいのだと言います。

 音楽を奏でるというのは、作曲家の思想やイメージの再生で、そこにそれを演奏するという自分の意志が加わります。そしてそれを聞く人がいる、自分の為ではない、他人の為に再生するのです。鬼滅の刃の映画を見た時、主人公の炭治郎が鬼の術によって眠らされ、自分の精神の核を壊されようとした時、夢の中で必死に自分の首を切って死ぬことにより、目覚めようとしたシーンも、底知れない孤独に落ち込み、苦しんでいるとしても、いったん死なない事には再生はないということを暗示しているのでしょう。

 何にせよ、苦しみは必要だった、これまでのように、何も困難のない幸せな生活は、もうないという事実に、打ちのめされ茫然と立ちすくみ頭が混乱してしまう人も多いとしても、でも自分で戦うしかないのです。苦しむ自分の首を切り、そして自分で再生する、他者の為に。私は、様々な妄念に襲われ、人を羨み悲しくてやりきれない思いになることも多いのですが、その気持ちを断ち切るには、大きなものの存在をいつも感じ、それに守られながら、自分のテリトリーで出来ることを精一杯やることだと思っています。

 ずっと義母の片付けものに追われていて、今日はブランドのスカーフが沢山入っている引出しを整理していたら、一番下に何と義父が戦争に行く時、皆から寄せ書きされた日の丸が入っているのを見つけました。茶色に変色してしわしわだけれど、「祝入團 中村政好君」と大きく書かれてあり、夫に見せたら初めて見たとのこと、柔道9段の先生の名前も書いてあるというのです。十代の義父の姿があざやかに蘇り、私にとってこんなに嬉しい発見は在りません。

 この日の丸の旗には、若くて凛々しくて柔道の才能に恵まれた義父を送り出す、沢山の方々の愛情や想いが詰まっている、これからどうやってこの家や着物たちを活かしていこうかと思っている私にとって、この日の丸はこのうちの象徴であり、指針であり、お守りのような気がしています。