リベラルアーツ

  山口周さんの「自由になるための技術 リベラルアーツ」という本を図書館から借りてきました。実は新聞記事で山口さんのことを読んで、これまでに何冊か借りたことがあるのですが、あまりピンと来なくて、今回もあまり期待せず読み始めたのですが、まずリベラルアーツとは何だかわからず、調べてみましたら、”教養”でした。

 大きく時代が変化する今、自らの知的感度を高め、知識をアップデートするにはどうしたらいいか。でもこの情報過多の時代、目先のトレンドや対処法、ハウツーに振り回されて肝心なものが見えてこない、コロナ後どう動いて行ったら良いかを決める大事なこの年なのに、妙な沈滞感を最近感じていました。そんな時、再び注目を集めているのが、教養だとは意外でした。私が若い頃は、自分が何を学びたいかわからないから、大きく幅広く教養を学び、自分の行く手が見えてきたら専門を決めるという風潮が強かった気がしますが、今はもっと初めから専門的分野をガンガン突き詰めていく若者が増えていると思っていました。

 ところが山口さんは、リベラルアーツとは「自由になるための手段」であり、己を縛り付ける固定観念や常識から解き放たれ、自分自身の価値基準を持って動いていかなければ、新しい時代の価値は創り出せないと言い切るのです。

 2015年くらいに、世の中にみっともない、単に儲かればいいというビジネスが横行し、世の中の営みをまるでゲームのように取り扱い、いかに効率よくお金を吸い上げるか、いかに楽をして年収を上げられるか、そんなことばかりに注目が集まり、マスコミもはやし立てていました。ある種のみっともなさに対する自覚、人間としての美意識が圧倒的に欠けている、もう民族としての節度に欠けている、その当時戦略コンサルタントをしていた山口さんは、正しく消費者調査を設計、実施し、結果を分析して、科学的、数値的な裏付けの下に正しく強い商品を作ったけれど、感覚的、直感的にカッコイイと感じる商品が出てきた途端、足をすくわれるように負けてしまったのです。複雑で不安定な現代社会では、「分析」「論理」「理性」といったこれまで絶対視されてきたサイエンス重視の意思決定や方法論が限界に来ている、このような時代には、経営の判断にも、自らの「真」「善」「美」の感覚、即ち美意識を鍛え、よりどころとしていくことが重要だと山口さんは訴えます。多くの企業がコンサルティング会社や広告代理店に巨額の費用を払って、「何年先にどうなるの?」という未来予測を依頼してくるけれど、そんな発想が時代遅れなのです。

 自分は何をしたいのか、美意識に限らず、人の感性に訴えるものが重要視されてきていて、例えばアメリカでは2008年のリーマンショック以降、マインドフルネス、今という瞬間に自分が何に価値を置いているかを認識するという、自分の内部に目をむけていく手法が大事にされて来ています。人間というものをより深く理解することは「最重要のスキルである」これは私にとってとても腑に落ちることであり、コロナ前にエアビーの着物体験をしていた時、四時間という短い時間で相手を理解し、着物を着せてお寺に連れて行き日本文化を味わってもらうという仕事ができたのは、このスキルのおかげだと思っているからです。これから未知のテクノロジーが登場し、社会の中で本格的に実装された時一体何が起こるのか、まして今はコロナという未知のウィルスとの長い戦いが始まっている時、人間のよすがとなるものは、リベラルアーツ、教養しかないと山口さんは言います。

 地理も歴史も弱い私にとって、世界中から来るゲストの性格や特質を探るのは難しすぎることでしたし、アメリカ人とヨーロッパから来る人々の違いは、今頃気づくこともあるのですが、一番難しかったのは植民地支配の国から来るゲストだったのでした。イギリスは欧州列強の戦いを勝ち抜き、七つの海を支配しながら、世界中で多くの植民地を統治してきたからこそ、人間の奥深さを非常に理解し、他者との関りの中でどうすることが最も得策なのかというリアリズムを皮膚感覚として持ち合わせ、自国だけで欧州全土を支配するという考えが持続可能な未来ではないとわかっていたから、各国が領土を取り戻し、それぞれの力が均衡した微妙なパワーバランスを保つことこそが、相互に依存し、自国が反映する道だと見抜いていました。皮膚感覚とは難しいものですが、それが個人的な性格か国民的なものかもわからないし、複雑で一筋縄ではいかないものだけれど、どうにかして相手をわかろうとするめちゃくちゃな私の努力は時としてはずれ、そしてたまに大当たりすることもあったのです。

 先進国においては、もはや文明化が終焉していて、テクノロジーやインターネット、イノベーションが経済成長を促進させるという証拠やデータは一切ないのです。これまでの経済成長は基本的に、「便利で快適で安全」な社会を目指し、物を大量に作って売ることで達成されてきました。いわば文明化が、経済成長をもたらしてきたのです。長きにわたって経済が停滞している日本は、世界で最初に文明化をほぼ終了させた国なのです。交通機関にしろ、生活環境にしろ、日本ほど便利で快適、これ以上に安全な国は世界を見渡してもありません。そして、日本のリーダーは自らビジョンを作り出した経験がないのです。

 今、会社やブランドのストーリーをどのように作り出すか、それは、どんな文学作品を作るかと同じですから、経営者の文学的な知見、センス、造詣が問われる。思い出したのが、ヘラルボニーの作品の数々です。銀座のデパートに出店したリ、最近は色々な場所で見かけるようになったヘラルボニーの商品を、私も黒い喪服の帯に巻き付けて使ったことがありますが、障害者の作家さんたちの何十年にもわたる作品への集中により作られた色鮮やかなストーリーは、これまで見たことがなかったものだし、使って見た時の複雑な空間の広がりは圧巻なのです。これからの時代は、ストーリーのクリエイティビティこそが競争優位性を生みだすのであり、これをアート感覚と捉える、それが経営に求められている、アート・サイエンス・クラフトのバランスの見直しが大事なのです。会社としてのストーリーを作ったり、自分はこういう新しいものを世の中に打ち出していきたいんだというビジョン、こうしたアート的なセンスがなければ、会社は成り立たない時代だし、それが財務的、技術的に可能なのかロジカルに検証していくサイエンスの側面も必要です。さらに、そのビジョンを形にしていく実行力、実現力としてのクラフト、自分がわくわくするものを見つける、そこに軸足をのせて自分で意思決定していくということ、センスに良い悪いはなくて、センスというのは、どこまでもその人のセンスで、その人がいいと思うもの、素敵だと思うものを世の中に出していく、そこに結果としての普遍性が生まれる。コムデギャルソンの川久保玲さんを思い出します。

 人間が”想い”を失って、プロセスに振り回されてしまっている状態では、役に立つより、意味があることが大事です。今までは「問題が解決」出来ることが優秀とされていたけれど、従順で論理的で勤勉で責任感の強い優秀な人材はオールドタイプとして、これからは価値を失っていくと山口さんは言います。「喜怒哀楽が大切になってくる。自分の人生を豊かにすること、喜びを感じること。 ワガママというのは、好き嫌いをハッキリさせるということで、自由で、直感的で、好奇心が強い。人に説明するときに理屈ですると、理屈で打ちのめさせる。 でも、好き嫌いで説明すると、それ以上の話にはならない。同じ価値観を持ってる人が集まってくる このようなワガママなニュータイプが、豊かな人生を送ることができる。万人受けするものではなく、たとえニッチなものでも強く共感してくれる人がいて、グローバルに市場を広げることが出来る」

 人間のマインドはとても保守的なので、多くの人は相も変わらず、偏差値に代表される「正解を出す能力」を、その人の「優秀さ」を示すモノサシだと信じて、いまだに崇め続けています。問題が希少で解決策が過剰という時代に突入したのだから、正解を探すのでなく問題を探し、構想し、意味を与え、遊びを盛り込み、自らの道徳観に従い、組織間を越境しながらとりあえず試し、奪い独占するのでなく与え、共有し、学習能力に頼ることが大事になってくる。

 息子が会社に勤めて十年以上たちますが、製品も優れているしコロナ前は海外進出も考えていたのだからやりがいもあるだろうに、今一つはっきりせず、経営陣に対する不満を正月に来た時話していたら、コンサルタント会社にいる次女が、そんなことはどこの会社にもあると、一蹴していましたが、これから若い世代がどうクリエイトしていくかということなら、本人たちの資質をより上げることだろうし、地元を離れ都心で暮らしていることをメリットとし、たえまない刺激を受けてより向上してほしいのです。年収、偏差値、職業、居住エリア、子供が通う学校に至るまで、あらゆるものに単一のモノサシを当てて、自分や家族の人生までをも画一的に評価してきたことが、コロナ以後の世界においては非常に不安定なものであり、何より個々の人間の中の最も大切な価値が人生の中で置きざりにされかねない危険というものを、いい加減悟らなければならない。学校の勉強は嫌いだった息子が、これからどうやって仕事を通して生み出される価値そのものを見つけていくのか、とても興味のあることです。

 今日、私たちが当たり前だと思っているものでも、歴史的に見れば必ずしもそうでないものが沢山あります。リベラルアーツ、教養は、私たちを取り囲む常識の正体を見抜く感度を養ってくれるものです。現代の経営リーダーにとって重要な役割が、「質的な意味を与える」ということで、そのためには自分の中に広い世界観を持つこと。 

 何百という数の帯を持っている私が、柄の難しい着物に喪服の黒い帯を締め、ヘラルボニーで買った八重樫季良さんのハンカチを模様として付けた時の、世界の広がりというものを、私は心から愛しているのです。