ドライブ・マイ・カーを観て

 このところ本当に寒い日が続いていて、みんな冬ってこんな寒かったっけと言いながら、縮こまって暮らしていますが、銀座大好きな夫は朝から張り切って、9時過ぎには映画見に出かけると騒いでいます。とにかくたくさん着込んで、電車に乗って久しぶりの日比谷へ行って見ると、10時過ぎの上映なのに沢山の人が詰めかけています。三時間の上映時間、タバコ吸わずにいられるのかと心配していたら、マスクの中で何やら噛んでいる夫は意外と大丈夫でした。でも主人公たちはタバコ好きで、やたら喫煙シーンが多く、極めつけは車のオープンルーフを開けて二人で吸いながら、時々揃って吸いさしを天井から出すシーンで、さぞ夫はこういうことをやりたいと思っているだろうと、私は可笑しくなりました。

 たくさんのお客さんたちは、映画が終わって館内が明るくなったとき、ほぼ無言で静かに帰って行きました。もしここが外国だったら、思いをいろいろぶつけてしゃべるだろうなと思いながら、タバコを我慢し続けた夫をかまい、外に出て、すぐ前にあった喫煙可の居酒屋に入り、アナゴの天ぷらやら色々食べながら、ぼそぼそ感想を言い合ったのですが、簡単に言い尽くせる映画ではなく、村上春樹と監督の濱口さんと、チェーホフと、あと韓国の手話でヒロインを演じた女優さんの姿などがごっちゃになって、確かに静かになってしまうのも無理はないことです。

 主人公の俳優が映画の中で演じる戯曲は「ゴドーを待ちながら」と「ワーニャ伯父さん」ですが、セリフをカセットテープで練習するシーンがずっとあって、そのセリフや内容を知らないのが悔やまれました。それにしても広島で行われる演劇祭の演出をするためにオーディションをして、選ばれた韓国、中国、日本の俳優さんたちがそれぞれの言葉で一つの舞台を作り上げる、そしてそこに韓国手話で演じるヒロインも登場するのですが、それが最後には深い感動を与えてくれるのです。村上春樹が好きで、読み込んでいるものにとっては、その上にチェーホフやベケットの世界が入り 、登場人物の中で起きている気持ちの流れの描写力が凄まじく、映画の画面の中でのまるで火花が散るような会話シーンには釘付けになりました

 日本映画的なマーケットを意識した映画作りは、自分は得意ではないという濱口竜介監督は、村上小説の映画化はプロデューサーからの提案で決めたのですが、「ある言葉をその人の一番奥深い所から出す」という”ドライブ・マイ・カー”の表現に共感していたのだそうです。そもそも映画は作り物だが、そこに”もう一つの現実”が立ち現れる瞬間を見たい。でも村上春樹の物語であることを意識して、その核となるものは踏み外してはいけない。濱口竜介監督は、村上春樹の想像力と言語化能力、圧倒的な文章の力は他に比肩する作家がいないといい、まるで車に乗ったように運ばれ、運ばれていくうちに凄く突飛な展開をしていくのに、自分は確かにこれを知っているという現実的な感覚に出会うし、普遍的なものをすごく個別的で、具体的な手触りのあるものにする想像力と文章力があるといいます。どこにいても異邦人的な感覚があるのは似ているのかもしれない、読んでいて、どこにいたとしても埋めることができない違和感みたいなものが、おそらくあるんじゃないかと。村上さんの文章は、その違和感を原動力にして、他者とのつながりをすごく求めるように書かれている印象なのだけれど、でも、自分の映画は原作の芯を食わなければいけない。

 外国の賞をたくさん取り、オバマ氏までツイッターに感想を述べているのにびっくりしながらも、つまらないとか何を言っているのかわからない変態の映画だという感想もあって、そりゃそうだ、所詮ハルキストは偏屈なマイナーだけれど、強い強いマイナーなのです。とことん傷つき、とことん考え、本当に他人を見たいと望むならば、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないということがやっとわかった、マイナーなのでした。