ワーニャ伯父さん

 映画「ドライブ・マイ・カー」は3時間近くの長編なのですが、その中でチェーホフの”ワーニャ伯父さん”に関するシーンがかなり多く、ラストでヒロインが最後の長いセリフを韓国手話で滔々と語るのは感動的でした。なぜ村上春樹は小説の中でこの戯曲を取り上げたのか、濱口監督はこんなに重要なファクターにしたのか、いろいろ調べていると、監督とアーティストとの面白い対談などがあって、とても参考になりました。

 「頭の中で脚本を作りながらその役者を動かしていき、ある程度みんなが自由に動き回ったところで急に何かが変わる瞬間があって、その瞬間を逃さなければゴールが見えて、そこから割と時間がかからず完成する。演技する役者さんが、映画の中で見て変わって踏みとどまって、ある種悪い偶然や失敗みたいなものに耐えないと、良い偶然みたいなものを掴むこともできないし、自分自身が本当に望んでいる方向に開かれていくこともない。偶然を自分で誘発していく。全然違う道にそれていくんだけれど、それで急にもっと違う大きなゴールが見えちゃったりする。そういう作業をしてほしいということ」

 「本当に目指している事とかって、偶然でしかたどり着けないという感覚は在る。その偶然というものを受け入れなきゃいけない、それは自分を不安定な状況に置かなければならないということ。自分の中の滲み出たものが作品にあった時に、そういう気づきをいろんな人の感想から受けるというのはある。それが次の作品のヒントというか、次また違う霊感がやって来るかもなとか。作る時に助けてくれるのは、そういう生きてきた時間という感覚はわかる」

 「圧倒的な脚本力と映画としての豊かな表現が評価された。ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き、壁紙、書類、雑多な物体など)を組み合わせることで、例えば壁画のような造形作品を構成するような、原作のコラージュが素晴らしい。 チェーホフにはちゃんとした人間がひとりも出てこない。変な人だけで芝居が構成される。滅びゆくロシア帝国を描き切った人だが、そこで生きる人を愛情を持って描いる」

  濱口竜介監督のインタビュー記事を読んで、この映画を作るにあたっての彼の考えを探して見ると、真面目で真摯で、才能のある方で、これまで撮ってきた作品が皆かなり評価されているし、自分がしたいことが、映画の中でしっかりとらえられ、道筋も結果もきちんと付いていることが分かるのです。

 「言語化できない、なんだかわからないモヤモヤを、我々は少なからず抱えています。他人も同様に、別のルーティンのうちに閉じた状態にあって、互いにモヤモヤを抱えている。そんなある人とある人が出会ったとき、偶然それが新たな扉を開くことがある。他者と話して初めて引き出される言葉があるわけですけど、その言葉を通じて自分のモヤモヤした感情の正体をつかめることがある。本来なら同じ場所にはいないような二人が出会ってしまうということが、この映画では繰り返されます。偶然を通じて、出会うはずじゃなかった人が出会って、初めてこんな自分がいたんだと発見する」

 「ここでは言葉による解放があります。ようやく互いに抱えていた違和感を吐き出せている場面です。感情を抜いてずっとひたすらセリフを繰り返し読み上げる。無理なくその人から出てくるような言葉かどうか?演じる人に迷いがあるなら、それはこちらがリライトしなくてはならない」

 「”ワーニャ伯父さん”は観劇もしたし、原作も読んだけれど、あらためて主人公の家福が演じるという仮定で読み始めたら『これは面白い』、多くを語らない、家福という人の内面を示すものになると思いました。映画の中で、村上さんの文章をそのまま使う部分はほぼないけれど、チェーホフの戯曲はむしろそのまま引用しました。チェーホフのテキストの強度や場面が、この映画を違う次元に押し上げてくれました」

 「抑揚を捨て、セリフが身体の中に入り込むまで本読みを繰り返すリハーサル手法は”ジャン・ルノワールの演技指導”という短編ドキュメンタリーに登場するイタリア式本読みを実践したもので、人は意味を通じてコミュニケーションをするのが普通で、言葉を使って意味を細分化できるぶん便利だが、意味の陰に隠れてしまうこともたくさんある。相手の言語が分からない中で芝居をすると、言葉の意味以外でやり取りをしようとする。それが大事であり、作品の本来の意味にも通じる。本読みをしていくと、言葉の意味が稀薄化していくし、繰り返しやっていくと、言葉の意味に囚われず、言葉が自動的に出てくるようになり、空気感が増していく」

 

 今、日本においては、もはや製造業では社会全体を引っ張れない状況で、代わりに伸びているのがサービス産業で沢山の職種があるのですが、ここで問われるのは、与えられた課題をこなすよりも、課題を見つけ出し、新しいサービスに繋がる独創的なアイディアを生みだす力です。とがった個性を尊重する教育、人間は生まれ育った数十年の社会の意識を反映した存在であるけれど、異なる分野の人が交わる場所で、インベーションが生まれやすいのだし、人間に問われているのは、本質的に考える力なのです。同質社会では忖度しすぎて、そして差別も生じるし、つまらないことで差異を付けようとします。

 

「自分は今の置かれているポジションで何をすれば世界を変えることに繋がるのか」を考え続けることが、働く意味、生きる意味である。「自分の国はこうだ」という考えをしっかり持っていなければ、他国と対等に渡り合えないし、真の信頼関係は築けない。この国の中で考え、解決すること。一人一人が精神的に自立、独立しなければならないという覚悟、この力というものが、より問われる時代になった。損得計算では解けない問題にどう向き合うかをあらかじめ経験しておくことが大切。辛い恋愛も大事。

 

 パンデミックで行動が制限された時、普段から多様なものを受け入れて寛容性や臨機応変を培っている人は、冷静に向き合える可能性が高いし、物事は思い通りにならないとわかっていればもっと楽に受け入れられるが、異質なものや自分の気に入らないものを排除することに懸命になりすぎると、生きにくくなるだけでなく、危機への対応力も下がる。日本のメンタルは異質を社会組織の危険分子と捉えるけれど、寛容性というのは、色々な意味で強力な武器になり得るのです。

 

 濱口監督は、自分のやりたい事、これからこの国はどう進めばいいのか、心の闇を拭うにはどうしたらいいか、全て考えながら、ドライブ・マイ・カーを作り上げたのだけれど、今それを世界中が求めていたような気がします。

  家福が演じた”ワーニャ伯父さん”のラストで、ヒロインのソーニャは手話で、絶望しているワーニャにこう語っていきます。

 「ワーニャ伯父さん、生きて行きましょう。長い長い日々を、夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかも知れないけれど、他の人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期が来たら、おとなしく死んでいきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神さまはあたしたちのことを憐れんでくださるわ・・・そうしてようやく、あたしたち、ほっと息がつけるんだわ。もう少しの辛抱よ…あたしたち息が付けるようになるんだわ」

 ワーニャ伯父さんの首に手をまわして、ソーニャ役の俳優さんは、手話でこの長いセリフを語ります。静寂の中、手の動きと、表情と、そして字幕だけなのに、言葉がないのに、こんな感動が与えられるのです。息が付ける、やっと息がつける、今まで息が付けなかった私は、心からこの言葉を理解できます。苦しい日々は、決して無駄ではなかった。そういう思いを感じる人達が、きっとたくさんいるのでしょう。

 村上春樹の小説から、ここまでの脚本を書いた濱口監督の力量はすごいと思います。原作と脚本と俳優さんと、いろいろなものが化学反応を起こして、感じたことのないような気持ちになる映画というのは、初めてのような気がします。