朝の光の中で

 このところ色々なアクシデントや出来ごとが続いているのですが、昨日は私の部屋の暖房が付かなくなり、冷え切った部屋でパソコンを使うのも大変です。ケチな私は、自分の部屋を使わずコタツとホットカーペットの部屋にいることにして、冷え切った部屋は使わなかったのですが、今朝そこに入ると朝の光が筋状に差し込み、物語が紡がれていることに気が付きました。ホカホカの温かい部屋でない方が、光の差し込むのがよりわかる、戻るべきところはここだった・・ 

 母方の従妹の旦那様が亡くなり、土曜日葬儀が行われると業者さんからのショートメールが入っていたのですが、当日別の従妹から中止になって順延らしいけれど、どうも喪主の従妹がコロナ感染したらしいと連絡がありました。何ということかと思いながら、治って隔離期間も置かなければならないし、どうなるのかと案じていますが、とにかく動くことはできません。

 義母の妹さんはくるぶしを骨折して入院、面会もお見舞いもできないし、義母の施設ではまたスタッフが感染して、厳重管理されています。北京オリンピックは開催されているけれど、もう優劣を争うために競技すること自体、無意味な気さえしてくる、コロナ鎖国の日本はだんだん世界の企業から見放されてくるかもしれないという日経新聞の見出しを見ながら、改めて私たちは断崖絶壁の上にいて、大きな裂け目を見ている気がします。何も考えず、これまでと同じ日々が戻ってくるのを待ち、外国のゲストがいつかまた来ると思っていればいいのか、そんな時、フランスから新婚旅行で一昨年日本に来た夫婦からメールと写真が届きました。しっとりした夫婦は仲良く写真に納まり、趣味が絵を描くことの御主人が奥様をデッサンしている姿も写っています。

 たくさん来たゲスト達の中で、特にLGBTQの方々は印象深いのですが、いろいろ葛藤を抱えながら、自分の軸をしっかり持ち、昨日と同じ世の中は来ないから、必ず新しい価値を創るという意志を持って熱意をもって誠実に生きている彼らはこのコロナ禍ではフェイクではないし、どんな境遇にあってもひたむきに人間を磨いている彼女らは、本物ではないかと思っています。

 「自分で自分を認めないといけない」「破壊と創造は一対である」「人は心の壁を必ず作って持っている」「その心の壁を壊し、本当の自分を開放することが幸福でもあり、無になることでもある」「自己を解放することが、つまり破壊でもあり、創造でもあるということ」「心の壁にとらわれるな、ありのままでいい」「何を伝えたかったかより何を感じたか」みな自分の意志を持って何とか壁を乗り越えようとしている、LGBTも自分の意志だし、わずかでも前に進もうとする意志と覚悟。これから何が起こるかわからない世の中、大事なのは新しい価値を創るため強固な意志を持って誠実に取り組んでいくことだとしたら、今まで認められずつらい思いをしてきたこと、ともすれば自分で自分を認めることすら憚られていた感情さえもが、これからの支えになりうる不思議さを感じています。

 「あらゆる人間はこの生涯において何か一つ、大事なものを追い求めているが、それを見つけることのできる人は多くない。そして運よくそれが見つかったとしても、実際に見つけられたものは、多くの場合致命的に損なわれてしまっている。にもかかわらず、我々はそれを探し続けなくてはならない。そうしなければ生きている意味そのものがなくなってしまうから」これは20年前に村上春樹が中国の読者のために書いた、自分の小説が語ろうとしている事の要約です。大事なもの、その輪郭が見えているということ、それを追い続けること自体が、生きている意味そのものだった。

 映画「ドライブ・マイ・カー」の濱口竜介監督が、ロサンジェルスのオンラインイベントで、映画の中で使ったチェーホフの演劇について「チェーホフは本当に強い力を持っていると思った。テキストを役者の体に保存し、それが相手との相互作用によって感情を引き出すものだが、チェーホフのテキストを使った時に出てくる感情の量は半端でなくて、現実とフィクションの境界を失くしてしまうような、人々の体に直接訴えかけるような力を持っている」と語っていますが、私もこのことは強く感じたのです。ロシアの古い作家の演劇を作る過程を延々と描き、最後はヒロインが韓国の手話で語るチェーホフの言葉は、驚くほど身体に、心に染みわたるものでした。村上春樹もチェーホフの小説の原文を小説「1Q84」の中で長く取り上げているし、エッセイなどでも取り上げていて、私は「桜の園」や「三人姉妹」は小学生の頃読んだけれど、強いインパクトは持たず、反対にヘッセの「車輪の下」に暗く魅入られていたのです。でも、濱口監督もチェーホフの演劇の持つ力を心から大事にしていて、それを村上春樹原作の小説をもとにした映画の中に取り入れ、より強い思想性を持つものにしたことが、世界中で認められ、受け入れられるものになったこと、そしてそれをリアルタイムで見ることが出来る今の状況を心から有難く思っています。

 でも反対に、私たち人間に残された時間が少ないことも感じているのですが、今やるべきことをとことん突き詰めて行った時、同じ風景を見ている人たちがたくさんいる、そこへたどりつく資質さえあれば、どんな形でもどんなやり方でも生きて行けるし、生きる意味を見つけていくことが出来るのだと思うのです。明日はどうなるのか、来年、五年後、十年後、そして未来はどうなるか全くわからないけれど、苦しい時光が存在することを教えてくれる人たちがいること、そして忘れていけないのは、自然はいつも光を差し込ませてくれているのです。朝の穏やかな光、朝の光の中で、全ての生きとし生けるものは、同じ方向を見ています。