雛祭り

 昨日 三回目のワクチン接種に行った夫が、今日は英語レッスンの日なのに、だるくて調子が悪いと言って、先生のデビットに休むとメールしていました。ちゃんと英文を作ってからラインしているのを見ながら、過去二回は何も副作用がでなかったのに、今度はモデルナだからかしらと思っています。コロナウィルスに感染した方々は、後までずっと残る倦怠感やだるさ、やる気の出ないことに悩まされているというのですが、これはかなり危険なことのような気がします。

 痛風もだいぶ良くなってきたけれど、断酒して食事内容も気を付けていると食べられるものが限られ、ひな祭り仕様の総菜が所狭しと並ぶスーパーをぐるぐる回って夫が食べられそうなものを探していましたが、可愛いオードブルやちらし寿司を買ってお雛様を飾り家族で食卓を囲みながらテレビを付けると、ウクライナの惨憺たる破壊された光景が映し出されている、これは映画でもなく過去の話でもなく、現在進行形の映像です。なんて大変なんだろう、でも自分達は大丈夫でよかったといつまで思えるのか、その保証は全くないのです。

 鬼滅の刃の映画ではないけれど、私たちは鬼によって眠らされ夢を見ている、精神の核をつぶされ、感覚も感受性もやる気も気概も失せてしまった、がらんどうな人間になってしまっているのかもしれません。権力者も支配者も、同じように夢を見させられている、不当に簡単に栄光を与えられてしまった若者の目が虚ろに見えるのも、精神の核を操られてしまったからというなら合点がいくのです。コロナウィルスにおびえ、身を潜めていた時期が終わったとマスクを外し街に出た人々に、今度は砲弾が襲い掛かる、これは何かのメタファーだとしたら、際限ない欲で地球を汚し気候変動までもたらしてしまった人類に対する神の粛正としか言いようがない。終わりのないコロナウィルスの恐怖と心理的圧迫に耐えられないのは、今悪を犯している人間かもしれない、そしていくら待っても、いくら我慢しても、助けは来ないのだから、今私たちに必要なのは、自分の方法で、絶対的な一つの答えを持って、すべての疑問を解いていくことです。自分で自分の心を燃やすこと。自分の意思を持って、自分の心と対話し、自分の心を整える。答えは自分の心の中にある。人生の真理は,陽の当たらない海底にあるのだから。本来、植物は土や木の持つ力だけで十分に育つと言います。人間も、訳のわからぬ心配と焦燥に駆られて、人と同じ道で争うための準備のみをしていると、その道が通行止めになった時の対処が出来なくて右往左往してしまいます。そうならないために、いつも自分自身に問題提起をして、その問題を解決するために今日を頑張る。すると次の問題が出てきて、明日はそれを頑張る。そういうふうに毎日、脱皮を続けていく。・・疲れていてももっともっと前へ。だから倒れるときは前へ倒れる。 深刻になるわけでもなく、明るく前に倒れたいと思うのです。真理を求める心をひたすら見つめれば道は見える。自分自身を光として歩め。

 「きっとできる、不可能はない」という自信が、古くからあるものや伝統を進化させ、発見を生む。常識やジャンルといった壁や枠を飛び越えることができる人だけが、新しいジャンルを創造していくことができる。安定した人生より、挑戦し続ける人生の方が楽しい。できるという可能性が1%でもあったら、迷いなく一歩を踏み出す。皆誰しも、胸に苦しさや辛さを抱いてそれぞれの人生を生きています。でも、どんな理由であれ、それを他者に向けてしまったら、自分の中の苦しさや辛さは軽くなるどころか倍増していきます。自分以外の誰かを思いやったり、手を差し伸べたり、今日という日を平和に過ごせたことを幸せだなと感じることでしか、それを軽減させることはできない。

 仕事する時は着物を着ている娘が、桜が満開に咲いている名古屋帯を取りに来ると連絡してきました。義母の戦前の銘仙の生地で、作ってもらっている長羽織も、どんな感じに仕立て上がるか楽しみです。着物研究家で斬新なスタイリングを楽しんでいるシーラ・クリフさんのサイトのアドレスを娘が送ってくれたので見てみると、目から鱗が落ちるような発想の、素晴らしい着物姿のシーラさんが沢山写っています。春が来て桜が咲くころに、新しい着物姿でAIさんに写真を撮ってもらいましょう。鬼滅の刃で炭治郎が鬼の仕掛けた悪夢から覚めるために、夢の中で何度も自分の首を切るシーンがあります。もがいて苦しんで絶望して、そういうものが希望に繋がるということを、私たちはやっとわかりました。

 桃の節句とは、本当は魔除けの節句であり、破壊的なエネルギーから自分の命を守るための通過儀礼的なイベントなのだそうです。何も知らないで楽しんできた時代が、遠くにかすんで見えます。でも、これから、また新しい時代が始まるのでしょう。