グリーンブック Green Book

 平日の午後にテレビ放映されている映画は最近は面白いものが多く、この前はヘップバーンの「麗しのサブリナ」をうっとりしながら見たのですが、翌日放映された「グリーンブック」という映画はちょっと重たい内容なので録画しておきました。これは、黒人天才ピアニストのドクターシャーリーと運転手兼ボディーガード?のイタリア系アメリカ人トニーの二か月にわたるコンサートツアーの話なのですが、人種差別のひどい南部をあえて回っている彼らは、ピアニストとしての才能は絶賛されながら、食事やホテル、控室、トイレまで黒人専用のところを使わねばならず、それらの注意事項が細かく書かれているのがグリーンブックなのです。

 エアビーの体験を2017年から始め、十人以上の黒人の方々に着物や振袖や浴衣や羽織袴を着せてティーセレモニーをし、柴又のお寺を散策してきました。陽気ではっちゃけている女性たち、表情を崩さずちょっと怖かった一人旅の男性、色彩感覚が豊かで選んだ着物や小物のチョイスにびっくりするのだけれど、お茶のお点前は全く苦手だった女の子など、印象深いゲストが多かったのですが、私の仕事は着物を綺麗に着せることなので、そこさえうまくいけば、後は楽しくにぎやかに過ごせるのです。

 グリーンブックの映画の中で、トニーの美人の奥様が、最後にドクターシャーリーが家に来てくれた時、旅先から何通も送ってきたトニーの手紙の文章を、彼がロマンチックに作ってくれたことを知っていたから、思いっきり二回ハグしてお礼を言っていたシーンを見ていて、思わず涙してしまいました。

 トニーが映画の中で言っているように、この世界は、かくも複雑にできています。人種や国籍、あるいは性別などによって、わかりやすく区分けしてみたところで、そのすべてを捉えることなど到底できません。そもそも、ニューヨークのブロンクスで暮らすイタリア系アメリカ人であり、マフィアなど反社会勢力とも関わりの深い彼が、アメリカの白人を代表するマジョリティだとは、とてもじゃないけど思えないし、見方を変えれば、彼だってマイノリティであるはずなのに、どうして他の誰かを見下すことなどできるのか。そんなマージナル(境界)な場所に位置する人々を、ステレオタイプ(先入観、偏見)ではない“その人自身”として見、そして知ろうとすること、端的に言うならば、考えることをやめないことそれこそが、今の時代に通じる“多様性=ダイバーシティ”の根本の在り方であり、本作が射程する最も肝要なテーマであったように思うのだと、あるサイトに書かれていました。

 これは“人種差別”が公然と存在していた時代の中で、黒人にも白人にも与することができず、なおかつそのどちら側からも距離を置かれ、ひとり孤独に苦しんでいる男の告白を描いた映画で、そのテーマは我々の“アイデンティティ”とは、果たして何によって築かれるものなのかということなのです。トニーが言うように、それは自らが生まれ育った環境や文化によって、ごく自然と築かれるものなのかもしれない。しかし、幼少の頃にクラシック音楽に魅せられ、レニングラードで教育を受けたドクター・シャーリーの場合は、自らのアイデンティティに、常に“揺らぎ”を抱えていて、なぜなら彼が“そう在りたい”と願う自分と、周囲の人々が彼に“そう在るべきだ”と求める自分は、いつも乖離しているからで、その中で彼は、誰に気取られることなく、孤独な戦いを繰り広げてきました。しかし、トニーは、無学であるものの、そんなふうに“この世界が複雑である”ことは知っているのです。

 ドクター・シャーリーと行動を共にしながら、トニーもまた、所与のものだと思っていた自らのアイデンティティについて、思いをめぐらせます。自分はその価値観や態度を、ドン・シャーリーのように自らの手で選び、掴み取ってきたのだろうか。南部の白人たちと同じく、「そういうものだから」と無批判のうちにそれを受け入れ、自分自身で考えることを止めていたのではないか。だが、そんな“黒人ピアニスト”、ドクター・シャーリーをめぐるアメリカの現実は、トニーが想像していたよりも遥かに過酷なものでした。その類まれな才能と技巧に賛辞を送りながら、それ以外の場所では、ひとりの黒人──すなわち、自分たちとは違う“何か”として、慇懃無礼な態度を隠そうともしない白人富裕層の人々。あるいは、名もなき黒人のひとりとして、問答無用にぞんざいな態度をとる街の白人たち。そして、白人が運転する車の後部座席に悠然と座る彼を、不思議なものを見るような目でじっと見つめる農場の黒人たち。そもそも、ホワイトハウスでの演奏経験もある著名なピアニストであり、高級フラットで悠々自適な生活を送るドクター・シャーリーは、なぜそのような過酷な現実が支配する、アメリカ南部をまわるツアーを企画したのでしょうか。

  いかなる仕打ちを受けようと、そこで取り乱すことなく、自らの品位を保つこと。それこそが、ドクター・シャーリーの“戦い方”でした。ドン「そうだ。私は城に住んでる。孤独にな!金持ちの白人たちは私のピアノを聞くために金を払う。文化人だと感じたくて。だけどすぐに俺はステージから降り、他のニガーと同じ扱いをされる。それが白人たちの本当の文化だからだ。私は自分の同胞たちにも受け入れてもらえず、1人で耐えるんだ。黒人でもなく、白人でもなく、それに男でもない。教えてくれ、トニー。私はいったい何者なんだ?」

Dr. Don Shirley: Yes, I live in a castle, Tony! Alone. And rich white people pay me to play piano for them because it makes them feel cultured. But as soon as I step off that stage, I go right back to being just another nigger to them. Because that is their true culture. And I suffer that slight alone, because I'm not accepted by my own people 'cause I'm not like them, either. So, if I'm not black enough and if I'm not white enough and if I'm not man enough, then tell me, Tony, what am I? グリーンブック名言集というサイトには、重い言葉が並んでいます。

 今コロナ禍で、終わりの見えない紛争があって、気候変動も激しいこの時に、自分の神経が耐えきれなくなる人が増えてきています。ロシアの名門バレエ学校の校長が、容姿端麗でバイトにモデルもしてもてはやされる生徒に「君を褒める人間は君の敵だと思え。それは君のためにならない。自分の能力を伸ばせるのは自分だけだ」と諭し続けていました。アメリカ人と日本人のハーフで、身長が低い生徒を見ていて、彼はすべてのハンディを自分の努力で飛び越えていくと認め、有名なバレエ団の試験に受かった理由も、努力できるという才能でした。たとえ努力したことが結果として実らなくても、努力できるということは才能であり、それをしていることが自分の喜びにもつながるのです。

 義父が息子によく言っていたことのひとつに「人間は失恋と病気と落第を経験しなければ一人前にはなれない」がありました。親は子供に順風満帆の人生を望み、辛いことなく幸せになって欲しいと思うけれど、こうやって先には暗黒のトンネルしか見えない世界に突入しそうな時、そこに突っ込める胆力は、失敗しみじめな思いをし、努力しても報われない日々をどれだけ耐えられて来たかということから作られるのでしょう。若いうちの苦労は必要だ、なんて言葉が甘っちょろく思えるほど、世界情勢は緊迫しています。自分達の、世界の正義を貫くために、生きるか死ぬかの戦いを続けると宣言するウクライナの大統領の強い目を見ながら、映画でドクターシャーリーがなぜ偏見の強いディープサウスをコンサートツアーでまわるのか理解できた気がします。肉体的にも精神的にも、人は強くならないといけない、自分の持って生まれたアイデンティティは変えようがないのだから、それに従って生き続けるには、努力してもっともっと強くならなければならないと本能的に思える選ばれた人間の生き様を見て、人々は励まされ生きる幸せと勇気を持てるのです。

 私に今できることは、日本人に着物を着せるだけだったら味わえなかった、異質の感情や問いかけに出来る限り応えることです。世界は複雑です。でもそれを真剣に考えることが、救いになる気がしています。