帝釈天のニューフェイス?

 コロナでずっと柴又に行くことがなかったのですが、二年ぶりにゲストが来て久しぶりに帝釈天に行き庭園エリアに入ったら、今まで見たことがないちょっとカラフルな仏様たちが机の上に並んでいて、私はびっくりしながらも情況が良くわからないまま通り過ぎてしまいました。でも長崎の大学から来たパウラはここで足を止め、いろいろ質問をしてきたのですが、私はとにかく初見の仏様たちのいわれも、位置関係もなぜここに置かれているのかも全くわからず、めちゃくちゃな答えしかできませんでした。

 帝釈様に関する小冊子や説明書きはこれまでずっと読んできたし、このお寺は仏像よりは仏教の彫刻版の方が立派で有名で、私はこれまで誇らしげにこれ等をゲストに見せていたのですが、コロナ以後はまた同じところへ行って同じものを見せて同じことを言っていていいのかと考えだし、世界の状況も環境も全くこれまでとは違ってしまったのだから、観光客がのんびり散策して楽しむだけの体験はもうできないなと思い始めていました。

 そこへ、パウラからの質問を受け、後日急遽一人で帝釈様へ行き、知り合いの受付の方に話を伺って、この仏さま達がここにあるわけがやっとわかりました。秋田で仏師として活躍なさっていた方が昨年亡くなり、作品を帝釈様でお焚き上げするのですがそれまで公開されているそうなのです。土鈴や仏具、立ちびな 香合も作っていた方なので、飾られていた仏様もどことなく土の香りのする人形のようで、京都へ行って仏像を見てきたらしいパウラがこれらを見て、何かを感じた上での質問だったのかもしれません。Gmailでパウラに仏像たちの写真を送り、質問をもう一度してくれれば今度は答えられると書いたのですが、意外とGmailは見てもらえないことがあるので、もし返事が来ないとしても、想定して解説文を記しておきます。

 仏様というのは大きく4つに分類され「如来」「菩薩」「明王」「天」となるのですが、悟りを開いた如来をトップとしたピラミッドになっていて、如来の次は悟りを開くために修行中の「菩薩」その次は悪を懲らしめる「明王」最後に仏界を警護する「天」となるっていて、仏様にも階級があるのです。

 飾ってある「天」の仏様はちょっと武骨なおじさんのようで、持国天、広目天、増長天、多聞天とあり、真ん中にいる火焔光の光背を背にした不動明王は一番インパクトがあるので、パウラはそこらへんに興味を持って、右端にある釈迦三尊や小さい地蔵菩薩、聖観音との関係性を不思議に思って質問してきたのではないかと思うのです。左端の聖観音と如来坐像は作品ではなく所蔵していた物のような気がするのですが、観音様とは人々を救済しながら自分自身も悟りを開くために修行中の仏様の事を言って、だから修行前の釈迦の姿である、古代インドの王族階級の服装をしていて、ネックレスやブレスレットなどの装飾品やアクセサリーを付けているのもそのためです。また観音様は持ち物が多いのもその特徴で、その一つ一つに人々を苦悩から救うためのツールであったり、仏教の世界観を象徴するものといった意味があります。観音とは、地獄を自由に行き来できる仏様のことで、死後の旅での7日ごとの裁判を経て、天道・人道・修羅道・畜生道・我鬼道・地獄道の中から「来世」が決定されるが、この六道すべてに救いの手を差し伸べてくれるのが観音様なのです。そして、六道の中でも最も罪深い地獄道の人々を救うときは基本型の「観音菩薩」の姿で登場し、餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道それぞれに対応した全33通りに姿を変えて人々を救ってくれます。それゆえ、「変化観音」とも呼ばれています。    

 仏教では「見聞一致」という教えがあり、「見る(観る)事」と、「聞くこと」と言うのは同じことと教えられています。音とは、人々の苦しみの声の事で、人々の苦しみの声を聞いて、救いを与えてくれる菩薩なので、観音菩薩と言うのですが、観音菩薩の様々な姿の中でも特に有名な六観音は 地獄界・・聖観音 餓鬼界・・千手観音 畜生界・・馬頭観音 修羅界・・十一面観音 人間界・・不空羂索観音 天上界・・如意輪観音なのだそうです。

 京都や奈良だけでなく、日本にはたくさんお寺があって、いろいろな仏様を見ているにもかかわらず、階級とか地位とか役割とかあまり考えたことがなくて、こうやって外国のゲストが何かを感じてしてくれる質問は貴重です。帝釈様の境内には大きな仏像が二体あって、近くの幼稚園に通っていた頃は、両手がないのがちょっと怖かったのですが、それでもなんとなく惹かれて、よく見に行ったものでした。これは帝釈様の所持しているものではなく、富士山にあったものを持ってきたので傷が少し付いていると聞いたことがありますが、ひとつのお寺にしても様々な時代の変遷があるものです。

 

 コロナウィルスの蔓延やウクライナ紛争が続く中で、日本のお寺に来た外国人が、何を考え感じるかと思うのですが、思いがけず飾られていた温かいぬくもりのある仏像たちは、その意外なお顔ゆえに改めて仏像の意味を考えるきっかけになったのかもしれません。