ビレロイ&ボッホ  Villeroy & Boch

 ビレロイ&ボッホはドイツの技術とフランスの感性が融合したダイニング&ライフスタイルブランドで、創業から270年余を数え、世界で最も歴史ある陶磁器メーカーの一つとして、発展を遂げています。ドイツの優れたテクノロジーとフランスの繊細なファッションセンスの融合、そこから生まれる名作の数々は、世界中の多くの人々を魅了し続けているのです。創業は1748年、後期バロック時代に砲弾職人のドイツ人フランソワ・ボッポはヨーロッパ中心部の自治国家ロレーヌ公国オーダン・ル・ティッシュにおいて「手に取りやすい価格で高品質な陶磁器を作る」というビジョンを掲げ、陶製テーブルウェアの製造を開始。持ち前の器用さですぐに技術を身に着け、3人の息子(ジャン・フランソワ、ドミニク、ピエール・ジェセフ)と6人の職人と共に、陶磁器製作所を設立します。しかしオーダン・ル・ティッシュの土は鉄分を多く含み茶色い陶器しか作れなかったので、当時貴重品として人気のあった白い陶磁器制作のため隣国のルクセンブルクから原料の土を輸入していました。

 ロレーヌがフランス領となり、様々な特権が適応されなくなったため、ボッホの三人の息子たちは1767年、オーストリア領ルクセンブルク市郊外のセットフォンテーヌに新しい陶磁器工場を設立し、時の女帝、ハプスブルグ家マリア・テレジアの庇護をうけ、課税や地代免除などの特権を得てビジネスの規模を拡大し、「王室御用達」として (Manufacture Imperiale et Royale)として王室の紋章を付することを許可されます。現在まで続く最も歴史ある柄「オールド ルクセンブルク」の原型となる「ブランディーユ」はその当時にデザインされ、今でも愛されています。

 順調に見えた事業ですが、時代はヨーロッパ全体が不穏な空気につつっまれていた激動の時代であり、ボッホたちの会社もフランス革命の煽りを受け、ナポレオン軍の進撃によりいったんは解体を余儀なくされます。しかしその後、ボッホの一番若い息子ピエール・ジョセフ・ボッホにより会社は再建され、優秀な実業家でもあった彼は、製造が難しく経費もかかる磁器の製作だけではなく、高品質な陶器でのより大衆向けで有益なビジネスに目を向けて、困難を乗り越えて、更なる成長を遂げていきます。

 一方その頃、1791年に20才以上年上のもう一人の創立者であるニコラ・ビレロイは、ドイツ ザール河沿いの町ヴァラファンゲンに陶磁器工場を設立します。彼はその土地に運ばれてくる石炭と、ザール川の豊富な水を求めて、その地にやってきていました。当時すでに成功したビジネスマンだった彼は、産業革命 発祥の国イギリスから優秀な職人を招き入れ、銅版印刷の成功や燃料としての石炭の使用など、生産工程の工業化に尽力しました。

 1809年、ボッホ家はザール河沿いのメトラーにある寺院を買い取り、近代的な陶磁器工場へと造り替えます。世界で初めて水力ろくろを導入し、効率化のみならず森林の保護を考慮し窯の火入れに石炭を使用するなど、工業生産の時代にふさわしく機械化による生産工程を確立させるのです。1812年には、そこで働く職人たちにより「アントニウス組合」が結成されますが、この組合はその後のドイツ宰相ビスマルクがドイツ初の福利厚生法を定めた際のモデルにもなり、そのことによりボッホ家には貴族の爵位も与えられました。

 1836年、ビレロイ家とボッホ家が合併、ビレロイ & ボッホ社は 設立競争が激化するヨーロッパの陶磁器市場において確固たる地位を築くため、ジャン・フランソワ・ボッホとニコラ・ビレロイは各々が所有していた3つの工場(メトラー、セットフォンテーヌ、ヴァラーファンゲン)を合併し、ここにビレロイ&ボッホ社が設立されます。ボッホ家はどちらかというと職人肌。技術の革新や新商品のアイディアを出していきます。そしてビレロイ家はよりビジネス的な観点から利益の追求やプロの人材を確保する、というお互いに補いあうようなビジネス観の違いがあったようです。

 その後ヨーロッパ大陸で初めて、青色銅版印刷や彩色石版印刷、1850年にはボーンチャイナを導入(1825年まですべての陶磁器は手描きでした)1842年、合併の話が進む中、ジャン・フランソワ・ボッホの息子 ユージン・ボッホと、ニコラ・ビレロイの孫娘オクタビー・ビレロイが出会います。 自然と恋に落ちた二人はやがて結婚。金婚式を迎えるほど長く、仲むつまじく暮らしたようです。 この二人の結婚によって、ボッホ家とビレロイ家は公私共にパートナーに。二つの家族の絆は更に強くなり、今も続くビレロイ&ボッホの礎が築かれました。

 1879年、メルツィヒにタイル工場を設立し、「メトラータイル」に各国から注文が殺到したため、ザール河沿いのメルツィヒにもうひとつのタイル工場を設立。 その後世界最大のタイル工場となり、その製品は世界遺産に登録されているケルン大聖堂や、タイタニック号の高級船室の浴室タイルにも採用されています。1887年には装飾品及び衛生陶器に本格参入、ヴィルヘルモ一世とその息子(後のフリードリッヒ三世)用に、翌年には“白鳥王”として知られるルードヴィッヒ二世のために製造したことをきっかけに、競合他社に先駆け大幅に衛生陶器部門の業務拡大を行いました。 これにより、ビレロイ&ボッホの創造性が広く市場に認められるところとなります。

 1900年にはアーティストによるデザイン参加をはじめ、ビレロイ&ボッホはユーゲント・シュティール(ドイツ語のアール・ヌーヴォー)のアーティストたちと積極的にコラボレーションし、彼らの自由な発想は商品のシェイプや絵柄に活き活きと映し出されるようになりました。この頃から陶磁器製造工場で衛生陶器の大規模な生産が開始され、一般大衆に浴室用の陶器が行き渡るようになります。1976年、ドイツ・ゼルブ地方は陶磁器産業の中心地として名を馳せていた最大規模の高質陶磁器製造会社ボーンチャイナ ・ メーカー<ハインリッヒ>を吸収することにより、高品質の商品生産の幅が拡大されます。

 これを皮切りに、1986年には陶磁器メーカー<ガロ・デザイン>を、また1989年にはシルバーウェア・メーカーの<コック&バーグフェルド>を吸収することにより、現在のダイニング&ライフスタイル部門の基盤ができあがりました。1998年、創業250周年の記念すべき年に、トータル・ライフスタイルコンセプトを発表し、ライフスタイルブランドとして「ハウス オブ ビレロイ&ボッホ」と呼ばれる直営店を世界各国にオープンしました。

 2001年、21世紀のライフスタイルを象徴する、シンプルでモダン、マルチな使い方ができるメトロポリタン コレクションを発表、 料理の国籍を問わず、インテリアとしてもスタイリッシュなアイテムを発信することで、 食器メーカーに留まることなく、ホームウェア・ブランドとしてのトレンドリーダーの地位を不動のものとしました。2004年、ニューウェイブ カフェがドイツ産業技術革新賞を受賞、ビレロイ&ボッホの高い技術職と、いつの時代も最先端を走り続けてきたブランドの精神が生み出した「ニューウェイブ カフェ」は、他に類を見ない優れたデザインと機能性の高さで、ドイツ産業技術革新賞を受賞しています。270年もの歴史を経て今ではテーブルウェア・水回り商品を筆頭に世界中で広く親しまれ、「デザイン」「品質」「革新性」を掲げ、伝統を守りながらも斬新なイノベーションを重ね、確固たる地位を築いてきたブランドなのです。

 

 

 私が昨日骨董市で偶然巡り合ったコーヒーカップは、これだったのです。店主はルクセンブルクのものだと言っていましたが、調べてみるとこんなに長い歴史がありました。エアビーの着物体験に、ルクセンブルクから一人旅の女の子が来たことがありました。大柄でふっくらしている彼女に私のつる草模様の小紋を着せて髪をアップにし、ショートパンツにTシャツというラフな格好で現れた彼女はあっという間に変身して、しずしずと柴又を歩いて楽しんでくれたのですが、江戸川の土手に続く階段を登っている時、二人で振り返って日本の小さな町の家並みを見ながら、ルクセンブルクとは全く違っていると言ったことを今でも覚えています。遠い遠いヨーロッパの国から、日本のこんな小さな町に来てくれた彼女は弁護士さんだと言っていましたが、すべて終えて帰る時、思わず二人で涙ぐんでしまいました。私のルクセンブルクに関するたった一つの思い出です。

 ネットでこのメーカーのいろいろな製品を見ていていたら見覚えがあるカップがあって、驚いたことに義母が知り合いから戴いて、使わないでずっとしまってあったのがここのものでした。知らなければそれでおしまいの話ですが、フランスとドイツにまたがる壮大な歴史を調べて見て、このカップにかなり愛着が湧きました。今度ヨーロッパのゲストが来た時、使ってみたいものです。