ぼんやりした不安

 朝、ドイツのワールドニュースを見ていたら、アナウンサーがこの三か月で世界は全く変わってしまったとコメントしていました。戦争を経験している親に育てられた戦後生まれの私は、これまで世界を揺るがすいろいろな出来事のニュースを見てきたけれど、日々の暮らしに追われ、自分のテリトリーの中の感情に追われて年を取ってきて、今静かに夫と暮らす生活の中で、世界の亀裂を見つめています。

 私は15歳の時、中学の弁論大会のために、好きな作家の芥川龍之介についての文章を書きました。全部は覚えていないけれど、最後に芥川は”ぼんやりした不安”によって自死したと締めくくったのを聞いていたある先生が、「私の目に不思議な陶酔感があった、でも自殺しないでね」と言ってくれたことを思い出します。ぼんやりした不安、15歳の私は無意識にその言葉に反応してしまったのですが、それから縁あって芥川の母校の高校に入ってやったことは、その不安から逃れることでした。進学校だったし、勉強も大変だったけれど、大学に入りどんな勉強をし、どんな学生生活を送ることが不安でない事なのかがわからず、それを選ぶことが出来なくて、とても個人的な思いにだけ左右されながら、逃げの高校生活を送りました。

 あれから五十年たち、今コロナや紛争や侵略や異常気象などの中で将来に不安を感じることがむしろ当たり前になった時、今までよしとされてきた人生設計がもうマニュアル通りにいかないことが、私にとってはぼんやりとした不安がなくなっていく要素のような気がします。一番恐ろしいのは敵の攻撃でも天災でもウィルスでもなく、自分の中の計り知れない闇へのぼんやりした不安だった、他者の、システムの作り出す物語に同化することができない、自分を明け渡すことは無理だった時、どうすればいいか。あの時若い私にとって何をすることが正解だったのか。

 オウム真理教の医師や科学者といった優秀な人間たちは、自分の居場所や考え方が、要求されているシステム社会と一致しないという違和感を持ち、それを拭い去れるところがオウム真理教で、自分が苦しくなく息が付けるその組織の指示に従って開けてはいけないものをあけ、下りてはいけない世界に降り、閉じ込められていた闇を社会に振りまいてしまったのです。違うシステムに乗り換え、そして傘でサリンの入った袋を破りました。今起きている紛争はどうなのでしょう。侵略、迫害、弾圧。何も問題がない国などない。

 [システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは「病気」であり、適合させることは「治療」になる。こうして個人は自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押し付ける他律的パワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、「病気」とみなされるのだ]

 戦争に行って、相手を殺したり自分が殺されるのは嫌だ、と思うことは、システムに適合しないことだと、いつの間にか刷り込まれています。

 今私たちが必要としているのは、おそらく新しい方向からやって来た言葉であり、それらの言葉で語られる全く新しい物語(物語を浄化するための別の物語)なのだ。それらはどこにあるのだろう。どこに行けばそれを見つけることが出来るのだろう。なぜ新しい言葉や物語を作らなければならないのか。 

 

 最近芸能人の突然の死が報じられることが多いのですが、何故亡くなったかというコメントはなくなり、公共機関の電話番号がいくつか記され、悩みがあるならここへ相談して下さいというシステム化された画面が必ず出るようになりました。自分の頭で考えず、システムに乗っかる、それに異議を唱えることもできないのかもしれない、システム管理社会に反旗を翻したのはオウム信者だった、彼らの正当性のもとに。ここが27年たってもクリアにならないから、今の状況が引き起っているのでしょう。淀みがもたらす無感覚、無表情、無反応。初めてのゲストが南米から来た五年前、駅のホームを黄色の振袖を着て歩いて居た彼女が、びっくりしたように言った言葉が「誰も私を見ない」でした。表情一つ変えず、まるでそこには何も存在しないように無視することは、今はとても危険なことだと思います。反対に自分が何か危険な目に会って助けを求めても、無表情にスルーされたら・・国家間の争いでもおなじことです。

 

 もし私が自我を失えば、私は自分という一貫した物語をも喪失してしまう。物語というものは、自分を取り囲み限定する論理的制度、論理を超越し、他者と共時体験を行うための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。物語とはお話であり、論理でも倫理でも哲学でもなく、自分が見続ける夢であり、その中では二つの顔を持った存在として、主体と客体を持ち、総合であり部分であり、実体であり、同時に影である。こうやって多かれ少なかれ重層な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。人は固有の自我を持たないで固有の物語を作り出すことはできない。でももし、誰か別の人間に自我を譲り渡してしまったとしたらその代償として影を与えられる。そして自分の物語も他者の自我の生み出す物語の文脈に同化せざるを得ない。人々は総合的、重層的、そして裏切りを含んだ物語を受け入れることに疲れ果てているからこそ、そういう表現の多重化の中に自分の身を置く場所を見出すことが出来なくなったからこそ、人々は進んで自我を投げ出そうとしているのである。

 

 ぼんやりとした視界で暮らしていると、ぼんやりした不安が見えなくなってくることに気が付きました。真の魂を持つ若者たちのパフォーマンスや、作家やエッセイストの指針に触れ、味わっていると、開けた地平線が見えてくる気がします。欲も奸計も誹りも、ぼんやりした不安から逃れたくてやっている事でしょう。何かをしたいとも思わなくなりました。目指すものを見つめていければいいのです。