胡蝶蘭

 六本木と日本橋で働いている娘から、お店に飾ってあった立派な胡蝶蘭の花が終わったので、その後のケアをしてほしいと夫にラインがあり、引き受けたら早速会社から大きな箱が送られてきました。鉢から出した状態で届いた三つの株を買ってきた素焼きの鉢に入れ、ミズゴケでくるんで水をたっぷりやり、胡蝶蘭育成所となっているテーブルの下において、こともなげに夫は仕事を終えました。今までいただいたラン類でも、シンビジュームは再生できなかったのですが、胡蝶蘭には日の良く当たるテーブルの下という環境がよく合うようで、十年以上いろいろな所からやって来た物が四月ごろから見事な花を咲かせています。四月の義母の命日、五月の義父の命日に満開の胡蝶蘭を仏壇に飾るようになり、近所の花屋さんの店主が胡蝶蘭だけは再生できないと言っていたことを聞いて、これは夫の特殊技能で「はなさかじいさんだね」と私がからかうと、「うるさい!」と怒りながら、それでもまんざらでもなさそうです。

 でも、胡蝶蘭は手がかかり、寒くなるとテーブルにビニールシートをかけて中にひよこ電球を入れ、いつも一定の温度になるよう気を配っているのです。私は今年はより見事に咲き誇ったつつじが終わった後、種から育てたマリーゴールドが満開になり、そのあと植えた百以上のアサガオの芽があちこちに出てきたのをこれからどうやってまとめようかと悩みつつ、農協で買った初めてみるコキアの苗がどんなになるか楽しみにしています。子供の頃読んだ外国の童話で、三人の姉妹が旅をしていてある家に泊まったとき、上の二人は夕食をたくさん食べて寝てしまったけれど、末娘はそこで飼われていた家畜たちに水と餌をあげて食べるのを見てから自分もご飯を食べたのですが、夜中に姉たちのベッドは地下に落とされてしまったというところを鮮明に覚えている私は、すべての花たちに水を上げ仏壇の花や神棚のお榊の水を替えてからご飯を食べないと、夜中に地下に落とされてしまう気がしています。

 この胡蝶蘭たちも生産者に丹精込めて作られ、開店祝いのお店に飾られて沢山の人達を見てきて、花が終わった後、うちにやって来て夫に世話をされている、私の着物たちと同じだなあと思います。どれだけの思い出と出逢いが一枚一枚の着物に込められていることか、何故これらがうちに寄せられてきたのか、そのことを一番大事にしていかなければならないと、胡蝶蘭の葉を見ながら思います。どんなものにも命はあります。私たちは間違った方向に行ってはいけない、踏みとどまらなければならない、それは日々の生活も一緒です。気持ちを落ち着かせ、前を向いてなすべきことをしていく。

 昨日は一日雨降りで、花壇がどうなっているか見ていません。今、朝日が差してきました。欲を出してはいけない、人を殺めてはいけない、私たちに寄せられたご縁を大事にして、出来る限りのことをして、自分を磨いていかなければならない、娘が誕生祝に送ってくれたお店の草履はとても履き心地がよさそうで、今は本当に良く工夫されているなと感心しています。白内障の目だけれど頑張って半襟を付け替えて、柴又のおばあさまに戴いた縞の紬を着て新しい草履を履いて、久しぶりの歌舞伎を見にいきましょう。