バクダンジュース

 ネットのニュースを見ていたら、シンガーソングライターのスガシカオさんが、早稲田の村上春樹ライブラリーで五月にキャンパスライブを開き、千人を超える応募の中から選ばれた数十人と村上さんがライブを楽しんだとあり、私はびっくりしてしまいました。このお二人の何処に接点があるのかと思ったら、スガさんは村上さんのファンであるし、村上さんの小説「アフターダーク」にスガシカオさんの「バクダンジュース」がコンビニで流れていたという一節があって、村上さんはスガさんをボブ・ディランみたいだと言っているという記事もありました。スガさんはこのところアイスショーで歌っていて、私はずっと聞いているのですが、割とさわやか系で、歌詞のリアルさが別物のようでピンと来なかったのですが、村上春樹がスガシカオを好きなんだとわかって、スガさんを見る目が変わってしまいました。

 

 スガシカオさんの本名は、菅止戈男という難しい字で、争いを止めることが「武」の本義であるという孔子の著から取られ「戈ほこ」を止めるという意味の名前だそうです。親御さんは凄い深い命名をしたものだと感心しながら、サイトで音楽性を調べてみると「深く濃く、大胆かつ繊細なアプローチで生まれた新しい音楽。今にもはち切れそうに危険なファンクサウンドと意味や辻褄を無視した、気持ちを独白するような純粋な歌詞。激しい感情と穏やかな諦観が詞の世界、音の合間に深く深く刻み込まれている。ずけずけと他人のテリトリーに入ってこないというか、こっちを気にしているけれど詮索しないみたいな、そんな距離感があり、そこに聞き手との独特の共有感が生まれ、この前置きのない共有感に、聴き手ははっとする。」とあります。

 アイスショーの音楽として聴いていた時はノリノリの楽しい曲だと思っていた「午後のパレード」も、歌詞をしっかり読んで見ると凄いシリアスなのに今頃気づきました。「夏の日差し 乱反射して パレードがやって来た 約束の切なさと同じだけ 今日は騒ごう ! サイフの中のセンチメンタルだけじゃ 全部両替しても 足りないんじゃない」

バクダンジュースについて村上春樹さんが書かれた文章に、「四畳半的な、閉鎖されかけたサーキット内での、ぬめりのある独特の生理感覚があり、その一方で、そこから唐突にすとーんとあっち側に突き抜けてしまうような、あっけらかんとした観念性がある。そのふたつの逆向きの感覚が微妙な共時性を維持しつつ、柔らかいカオスのようなものを生みだすことになる。『ポスト・オウム的』というと、いささか話がアブナくなってしまうけれど、そこに在るものはたしかに、1995年以降でなければうまく通じにくい、漠とした『カタストロフ(物語の破滅的結末)憧憬』ではないかと、いう気がしないでもない。」とあり「不変の期待にいつもハイクオリティで答えてくれる、数少ないアーティストで、かなり特徴的な『文体で』微妙なごつごつさや細かいツノの立ち具合、エラの張り具合が、何といってもこの人の歌詞の持ち味なのだ。」と評価しているのです。

 スガさんはデビューして25年だそうですが、バクダンジュースは村上さんにとってはアンダーグラウンドの「オウム」にまでつながって、やはり27年前のあの事件が分岐点だったと改めて思うのです。私が中学の頃大学紛争が熾烈で、入試が中止になったりデモやセクト争いなどすさまじく、テレビで見るだけでしたが、60年代の暴力というのは、多くの場合闘争か、あるいは抵抗のための暴力で、それが正しいかどうかはともかくとして、そこにはわかりやすい美学のようなものがあったといいます。「そのアドレナリンのような匂いは若い読者を多く惹きつけたけれど、今はそうではない。冷戦終結後に起こった戦争の多くがそうであるように、暴力性が局地戦化、セクト化して大きな方向が見えなくなってしまい、アドレナリンの匂いが拡散してしまっている。我々はそのような新しい種類の暴力性を、もう一回物語の中に取り込んでいく必要があるんじゃないかと僕は感じている。言葉で『こうですよ』と説明するのではなく、物語として。」村上さんの言葉はいつも切実に響きます。

 「ドライブ・マイ・カー」の入っている村上春樹の短編集を読んでいる娘が、「木野」という作品にも心惹かれたと言っていて、「誰かを幸福にすることもできず、むろん自分を幸福にすることもできない。だいたい幸福というのがどういうものなのか、木野にはうまく見定められなくなっていた。かろうじて彼にできるのは、そのように奥行きと重みを失った自分の心が、どこかにふらふらと移ろっていかないように、しっかりと繋ぎとめておく場所をこしらえておくくらいだった。”木野”という路地の奥の小さな酒場が、その具体的な場所になった。」という文章を読んでいると、世界中にいるハルキストが、これは私のために書かれたものだという気持ちが良くわかります。音楽や文学の普遍性、存在する意味はここにある。

 一人きりでも孤独でも自分の心を満たせるものがありさえすれば、人は戦わないでしょう。どんな小さいことでも、自分が心から満足できることを増やし、今の時代はそれを発信していくと、同じ思いを持つ人と繋がることもできます。でも、苦しい思いというのはいろいろなことを考えさせられるし、堂々巡りになるけれど、何かをし続けて行く上では本当に必要なものです。苦しさの気配が自分の中に感じられた時、耐えられない人は他人を攻撃し苦しめることで、訳のわからない満足感を得ようとする。昨日寝る前にスマホ見ていたら、ウクライナでコレラ感染が広がる可能性があるという記事があって、苦しくて寝られなくなりました。人が犯した罪がどんどん広がって新しい病気まで引き起こすのかと思うと、パンドラの箱を開けて争いや嫉妬、悪意など様々なもので満ち溢れた空気を吸っている自分達が嫌になってくるし、生きている意味さえ疑いたくなります。

 ベストセラーになった”1Q84”という村上さんの小説は、「リトルピープル」という自分の中にある「悪」の存在を深く認識して、そこを掘り下げながら物語を書いていくことが、「リトル・ピープル」的な力を「反リトル・ピープル作用」に時間をかけて転換していくことなのだということを語っているといいます。「空気の中から糸を取りだして、それですみかを作っていく。それをどんどん大きくしていく」こと。それは織物を編みあげるように、物語を大きく紡いでいく。「善」と「悪」をともに抱きながら、さらに大きな「善」をめざして物語っていくことは、その作業の中で実現していくことなのではないかと思います。「リトルピープルという存在があって、ふかいちえとおおきなちからをもち、だいじなものがあるもりのなかにいる。リトルピープルからガイをうけないでいるにはリトルピープルのもたないものをみつけなくてはならない。そうすればもりをあんぜんにぬけることができる。」

 よくわからないけれど、今スガシカオさんの歌を聴いて考えるということがとても大事な気がしています。