農協の花

 コロナ感染が広まってステイホームになり、外出も買い物くらいに制限されていた頃、運動不足にならないように今まで行ったことのない遠くのスーパー巡りをするようになりました。柴又のオリンピックというスーパーに行った時、すぐ近くにJA農協の販売所があって、とれたての野菜が並び、開店前から結構多くの人が列を作って待っているのに驚きながら、買ったお米がとても美味しいのでそれからよく通っています。でも野菜が少ししかない時もあるし、その時取れる旬のものしか置いていないから、ネットでレビューを見たら「品が揃っていない!」と書いた方がいて、いろいろ欲しかったら近くのオリンピックに行って買い足せばいいのにと私は思っていました。

 あと面白いのが、畑に生えているいろんな種類の花がごったにくくられている350円くらいの花束で、時々珍しい小さな鉢植えもあって、私はこれまでに「侘助」と「コキア」を買って育てています。この畑の花の束を初めて見た時、私は若い頃に愛読していた幸田文さんの「闘」という小説に描かれていた寺田宇市という農家のおじいちゃんの事を思い出しました。農業一筋実直に暮らしていた宇市さんは肺の病で入院していて容態が悪くなった時、駆けつけてきた息子さんが畑に生えていた花々を手当たり次第摘んできて、ベッドに横たわる宇一さんに豆の花や麦を見せながら、作物の出来具合を語り合うという文章は、50年たった今でも鮮明に覚えているのです。本当にごったに摘まれた花々は、しおれかけたのもちょっとつぶれたのもあって、花屋さんで買うのとは全く違うし、そんなに持たないのもわかっているのだけれど、この花たちはいったいどこに咲いていたのか、ジャガイモの畝のそばかしら、枝豆のそばかしらと考えながら、採れたての枝豆と花束を買って帰りました。すぐ枝豆をゆでながら花束をほどくと、今日はスイトピー、カラー、ミソハギ、カンパニュラ、あと名前が分からないものがたくさんあり、これで350円は安いと思いながら小さい花瓶に挿して、いろいろな所に飾っています。

 ある園芸番組を見ていたら、一年生草のパンジーをいろいろな場所に植えて、花が終わった後種を取ろうと思ったら、八重咲の変わった品種のものに種が出来なかったと言っている方がいて、私も変わった種類の球根を買い、二年目にまた大きくなっていざ花が咲くと楽しみにしていたら、花のところが外側だけで空っぽだったのを見てびっくりしてしまいました。それからは単純でこの地にあった安いものを買うようにしています。

 

 スガシカオさんのCDを借りに図書館へ行った時、村上春樹さんの「東京奇譚集」という2005年に発行された本を借りてきました。その中に「品川猿」という短編が入っていて、ずっと後に出された「一人称単数」という本の中の「品川猿の告白」というものと繋がっているのか気になったからです。品川猿というワードは一緒でも、内容はもちろん違っていて、書き下ろしだという「品川猿」を読んで私はかなり衝撃を受けました。いつもながらの村上春樹の世界なのでしょうが、最後に謎が解かれ明るみに出てきたのは「心の闇」でした。

 明るくて如才なくて仕事も結婚生活もそれなりにうまくいっている26歳の女性の心の奥底にずっとあった心の闇、美人で頭脳明晰、何一つ欠けた所がない下級生の女の子の、自殺に至る嫉妬という心の闇。偏屈で勝手で未だ心の闇に振り回されている私には、普通と思われる行動ができない苦しみがいつもあるのだけれど、村上さんの本の中には心の闇に苦しみながら何とか辻褄を合わせて生きている方々が沢山いるのです。最近、同年配の方とお話ししていると、子育ても親の介護も終わり、老年期に入ってそろそろ終活をしなければなんていう話題になるのですが、私だけはいまだ「重い蓋を取って、自分の心の闇と向かい合う時期が来ている」という小説の文章から逃げてはいけないと覚悟しています。

 小説の主人公の女性は、「あなたは小さい頃から、誰からも充分愛されることがなかった」「負の感情を押し殺して生きてきて、そういう防衛的な姿勢が自分という人間の一部になり、そのせいで誰かを真剣に無条件で心から愛することが出来なくなってしまった。」と自分の心の闇をあからさまにされるのだけれど、「遠目で観れば気づかないが、至近で観ればピース(≒時空間のひとかけらのようなもの)が欠けていることが分かるような。その欠けたピースは誰かの幸せ(≒品川猿のような)に貢献しているのだ。」「愛が消えても、愛がかなわなくても、自分が誰かを愛した、誰かに恋したという記憶をそのまま抱き続けることはできます。それもまた、我々にとって貴重な熱源となります。」と、彼女に恋した品川猿が後で告白するように、人間と動物と自然界が混然一体となった不思議な異空間の話であっても、いろいろなものがつながって絡み合っていることを、村上さんは明らかにしていきます。

 

 「もっと深く人間それぞれに存在するものを考える必要がある 暗闇の中で自分の中にある何かがどんどん大きくなって、自分そのものを破りそうに思ったという。抑えようとしても抑えられない白いぐしゃぐしゃしたものがあるのだ。」「人間というものはきっとみんなそれぞれ違うものを自分の存在の中心に持って生まれてくる。そしてその一つ一つ違うものが熱源みたいになって、一人一人の人間を動かしている。勿論私にもそれはあるんだけれど、時々それが自分の手に負えなくなってしまうんだ。」というのは、今世界を混乱に陥れ破滅に向おうとしている権力者たちの、心の闇の持って行きようがない衝動を明らかにしているのかもしれない。

 歴史は、世界は、大きな巨大な装置が動かしているのではなく、物凄く単純で一人一人の人間がねじを巻いてできているもので、そして静かで生命に満ちた世界を維持し続けるために、姿は見えないけれど、いつもどこかで、ねじを巻き続ける「ねじまき鳥」たちの存在の大切さを「ねじまき鳥クロニクル」という小説は問いかけます。

 結局心の闇とは、<こちら側>と<あちら側>、<表層>と<深層>の境界にいる時に、「深い森の奥」や「深い井戸の底」で人間を感じ、考え、真摯に見つめ合い、共振し合える場所であり行為であるというのだけれど、ここへきて、心の闇とは必要不可欠なものであり、合わせ鏡をしてそれを映していると、沢山見えるものはいつか透明な善になっていく気がします。それを認め、深く感じ、取り込むことでしか人間は再生できない、それを阻止する暴力に対しては暴力で返す。静かで平和なねじを巻き続けるための<ねじまき鳥>たちの闘いである。権力や暴力に晒されながらも、ひたむきに懸命に生きる市井の人々。そこにあるささやかだけれども素晴らしくかけがえのない人間の営みや幸せ。そういうものを守るために<ねじまき鳥>は闘わなければならない。これが今まさにウクライナで起きている事実なのです。 「この感覚は知っている。この落ち込み方、この絶望感、焦燥感をいつも持っているかどうか、善と悪、無意識に落ち込む負のスパイラルから逃れるためにはどうしたらよかったか」領土がもっと欲しい、お金が欲しい、名誉が欲しい、それは裏返せば心の闇から出てくる嫉妬かもしれない。悪を仕掛けようと思う時点で、心の闇はその人間を食い破っている。

 もうすぐ命が尽きようとしている時、自分が慈しんできた畑に咲いた沢山の花々を見て、ふっと微笑むことが出来る、そういう心でいることこそが、すべてである気がします。