集合的無意識   “Collective Unconscious”,

 どうして今どきの若者は、自分の歌の歌詞の中にユングの言葉などポイと入れてしまうのでしょうか。年寄りの私は、老眼鏡掛けてレゾンの歌に何回も出てくる言葉「集合的無意識」をコピペして検索してみたら、まあ恐ろしいことにユングに関するサイトにつながり、読んでいたら私が長年考えていたことの解答のようで、若い子たちはあっという間にここに行きついて、いろいろ模索していたのでした。

 ユングは人間の精神世界の深奥に広がる無意識の領域は、個人レベルの矮小な領域に閉じたものではなく、人類全体に共通するような広大無辺な”集合無意識(普遍的無意識)”へと開かれていると考えました。意識は氷山の一角で、95%が無意識(潜在意識)であると言われていますが、この無意識の先でみんなと意識がつながっているというのです。これは人類全体が先天的に持っている意識であり、個人を超越し、生物・人類・民族などの集団が普遍的に持っているものです。個人の枠を超えている意識であることから、『神の意識』とも言われ、プロテスタントの牧師の家庭に生まれ育ったユングにとって、宗教は最も中心的な問題であり、宗教は人間の魂の奥底にある神聖なものに対する人間の精神の在り方と理解していました。「ペルソナ」という言葉の概念を提示したのもユングであり、周囲に適応するために仮面をかぶるような自分の外的側面の事を指しています。

 ユングは「集合的無意識」を含める「無意識」と上手に付き合っていくことで、人は、より創造的な人生を歩むことができる、現実をしっかり見る、現実を生きる、現実を生きる自分を信じる、そうした「気づき」を得て、自分を上手に変えていくことができたら、それが無意識の創造性であり、個性発展の芽を活かしたことになると言います。意識と無意識のバランスが上手に取れるようになると「心境変化」が起き、心のエネルギーのバランスがとれて、人格がよりよく発展していく予兆となります。

 無意識・普遍的に共有できる「何か」がなければ、自分が生きる価値を見出すことができないし、他人と話をしても通じないような気がしています。学んだり、経験することで得られる何かではなく、無意識のうちに宿っている意識。「私」が消え去っても、同じ「意識」は無意識のうちに誰もが意識出来ているというのは、不思議な感覚なのです。

 

 

 背が高く、物静かなカナダ人の学生夫婦が三年前の寒い二月に着物体験に来て、特に髭もじゃの男の子は無口でなかなか会話が弾まなかったのですが、いつものお決まりの質問を重ねていて、「お母さんは何歳?」と聞いた時、「小さい時に亡くなって、今はフランス人の継母だ」という言葉が返ってきました。「うちの夫も母を早くに亡くして新しいお母さんなの」「十代からタバコ吸ってる」「うちの夫もそうなの、でも身体に悪いよ」それから一気に話をしました。寒い日でお寺の境内の庭園には誰も居なくて、足元がしんしん冷えていく中で、私は彼にキリスト教かと問いかけたあと、無謀にもその時考えていたお釈迦様の悟りについて英語で何とか伝えようと悪戦苦闘しました。

「お釈迦様が最後にわかったこととは、自分がこれまで考えてきたこと、わかったことがこの世の中の真実でありすべてである。だから私たちは他をよりどころにせず、自分自身をよりどころにしなさい。誰かの言いなりになったままでは心の平安は得られない。この世では自己こそ自分の主である。他者に分け与えられるものにこそ功徳があり、むさぼりや怒り、愚かさを打ち砕き、人の心を超越する。すべては移ろい、変化し、過ぎ去るものである。」

 こういうことが言いたかったけれど、半分も言えず「一生懸命考え続ければ、あなたもブッダになれるのだ」と何とかまとめたのは覚えています。彼はそれからいろいろ話してくれたけれど、今度は私が英語が聞き取れず、なんとなくうやむやになって、それから参道に出て、お団子を食べたりしながら四時間の体験コースを終えて、そっとハグして別れました。これでよかったのかなあと思いながら、私のできることはここまでだと力の無さを嘆きながら寝てしまって、翌朝起きて玄関を開けると、入り口にカナダのメープルキャンディが置いてあるのにびっくりしました。

 あとからメールがきて、少し食べてしまったものだから、直接渡さないでドアの前に置いておきますとあり、わざわざまたここまで来てくれたことに驚きながら、嬉しくて、その空き箱は今も大事にしまってあります。私の想いと彼の思いは、言葉を超えてどこかで繋がってくれたのかもしれない、これが集合的無意識?かどうかわからないけれど、切なくなるような私の体験です。

 

 あれから三年以上たち、世の中は驚くような変化を遂げていて、何年か前の常識など全く通じない世界に私たちは生きています。”親の言うことを聞け”と言われて育ってきた私たちですが、自分が親になって思うのは、親の常識では通用しない世界になり、親の言うことを聴くだけでは今の世を生きて行くのは厳しくなっています。殺し合いが公然と行われている非情な世を生きるには、学ぶことをやめず、心の支えを持ち、自分を大切にすることを常に意識して、自分自身を拠り所にしていかなければならないのです。

 今どきの若者の歌の中に、沢山の真実が隠されていました。