ふるあめりかに袖はぬらさじ

 何年ぶりでしょう、歌舞伎座の席に座るのは。所々テープでくくられた席があり、マスクは取らない、声はかけないなどいろいろな注意書きを掲げてスタッフさんが通るけれど、幕を見たり天井を見たり懐かしい風景を見ると、帰ってきたなあという気持ちになります。それにしてもこの十年近くすさまじい変動があり、歌舞伎座が新しくなってから名優と呼ばれる方々が次々亡くなってしまい、そしてコロナ禍の中で休演が続いていました。再開されてしばらくして中村吉右衛門さんが倒れ、回復することなく静かにあちらへ逝ってしまわれてから、もう歌舞伎を見ようという気持ちにもなれなくなっていたのですが、久しぶりに夜の公演の「ふるあめりかに袖はぬらさじ」の券を戴いて、昨日出かけることができたのです。

 あまりに暑くて着物を着るのはやめたのですが、歌舞伎座には単衣の着物を着た女性たちが十人以上いらして、いいなあと思いつつ、体調不良になって搬送されては大変なので、うちにある着物用のボディに露芝の模様の涼し気な紺の夏物の着物を着せて、私は洋服でやってきました。夏物の着物は色や柄が限られてしまって単調な感じがしてしまうのですが、舞台上では年増芸者の設定とはいえ、玉三郎さんが裾引きずりであでやかに着物を着こなしているのを見ると、ため息が出ます。障子を開けて港の空が見えるところに裾引きずりで座る玉三郎さんの美しさにはため息が出るし、頂いて使ったことがなかった柄と同じ帯を締めているのを見て、帰ってすぐ同じ帯を夏物の着物に締めて見ようと思ったり、いつもながら沢山の発見があるのが楽しくてなりません。この暑いさなかずっと出演しているせいもあるのでしょうか、玉三郎さんの声が時々聞き取れない時があるし、掛け声が出せない代わりに拍手が度々起こるのも、コロナ以後の事なのでしょうか。

 今回は歌舞伎俳優さんだけでなく、男性も女性も新派のいろいろな方が出ていて、その中心を玉三郎さんがしっかり押さえ、最後の場面、廓の広間に一人残されて、横座りに座って手酌でお酒をあおって、開け放した障子の外を見ながら「良く降る雨だねえ」とつぶやくところで幕が下りました。自殺した仲間の遊女が後で瓦版に攘夷女郎として祭り上げられてしまい、玉三郎さん演じる芸者お園さんはその伝説の語り部となってもてはやされるという話なのですが、世情に流れる情報と真実がずれて、残された人間が伝説になって踊らされている様は、今の私たちの現状と変わらないようです。日本とアメリカ。勤王派と佐幕派、そのどちらでもない人々。情報に翻弄される人々。しかも国が言われたくない言われると一番痛い所を、すっと指していますが、誰を否定も肯定もせず、あらゆる人間模様を煌めかせ、時代を超えて人間の根本に触れるもの、魂が貫かれた演目なのです。

 「幕が開き、暗い部屋の戸が開くと、わずかに漏れ入る光が、」出入りする人影を浮き上がらせる。まもなく女が、調子よくおしゃべりをしながら窓の戸を開けた。光がさすと、そこは遊郭の行灯部屋。窓辺にはお園がいて、客席からワッと拍手が起きた。窓の外には横浜の景色が広がり、アメリカの舟も見える。」玉三郎さんが15年ぶりに演じる芸者のお園さんは、吉原や品川を渡り歩いてきて、その場その場を凌ぎ生きてきたのですが、だから世の中を俯瞰して見ている、真実が見えているのです。芝居は笑いの中で転がっていきながらも、日本の在り方の真髄をついていて、アメリカを否定しているわけでもなければ、日本を肯定しているわけでも、否定しているわけでもない。でも全部お園さんは見てきて、最後に「ただ人間てここに生きていて雨に濡れてしまうのよね」と本心を言葉にする気持よさがあり、芸者のお園さんを取り巻く廓の世界の物語でありながら、人間や世情の根本を描いていて、玉三郎さんは最終的に心が浄化される独特の役だというのです。

 毎日あまりに暑くて、心身ともに不調になりますが、相変わらず世界は混乱していて、久しぶりに集って賑やかに遊ぶ各地で、コロナ感染はまた広がっていると、ワールドニュースは報じています。円安の影響で、日本に久しぶりにやって来た外国人が爆買いをしていると聞いても、怖い気持ちが先に来ます。明日は、来月新宿で行われるミュージカルの振り付けをしているというイギリスの女の子が着物体験に来るのですが、昨日知り合いから20年前の振袖セットが送られてきて、なかなか面白いセンスのものなので、振付師の彼女に家の中で着てもらおうかと思っています。皆何かの縁で繋がっている気がします。体調に気を付けて、あと一歩前へ進みましょう。