表現すること

 何かを表現するということは、芸術にしろスポーツにしろ文学にしろ、基礎をたたき上げ習練を積み、技術を極め、そしてその中に自分の感性や感覚を繋ぎ入れていくという道筋にあり、生半可な努力でできるものではないと思っています。コーラスを十年以上楽しみ、その延長で個人的に声楽を習ったことがありましたが、努力は認められつつも才能もセンスもなく、俯瞰して物事をとらえる能力がなくて、歌うことを辞めました。ただ最後に所属していた十人位のアンサンブルの先生がオランダで勉強した方で、息を流すとかニュアンスを考えるとか、ホールの端々まで気を配るとか、声を出す以外のことでいろいろ教わり、最後に出たコンクールで私たちのグループは随分褒められました。実力の有るメンバーばかりだから、必死で声を出そうとしなくても大丈夫だし、歌のニュアンスを感じながら一番奥の端に座っている方を見ながら歌って、最後にその方が”うーっ”と反応してくれて楽しかった、そんな思い出があったコーラス人生でした。

 実力があり感性がしっかりしていて自分の見える世界を提示してくれる指導者がいるということは、本当にありがたいことだし、何が大切かという価値観を共有させていただける幸せを感じたけれど、いろいろな世界で表現する人々は自分が何をしたいのか、それこそ無意識の世界にまで下りて行って探り出している気がします。スガシカオさんのCDを図書館で沢山借りてきて聞いているのですが、着物を片しながらなんとなく聞いているとリズムのあるファンキーな曲が多くて、楽しげだなと思って細かい歌詞を読んで見ると、よく聞き取れなかった細かい言葉は性行為に関するリアルなものだったりして、えーっとびっくりしてしまうし、スガさんの世界観はどちらかというとマイナーなものが多いことにやっと気が付きました。村上春樹が、あるCDの解説にそのことを書いていて、だからスガさんの音楽に惹かれるとあり、でも村上さんの小説もポルノチックな描写がとても多くて、夫は彼の小説を読むたびにそれを嘆き、だからノーベル賞を取れないんだ、そういう要素を一切書かないカズオ・イシグロさんはだからノーベル賞を取れたのだと力説しています。 

 私は高校に入る前に新宿のアートシアターという前衛映画を上映する映画館に良く通い、吉田喜重監督の「エロス+虐殺」篠田正浩監督の「心中天網島」などを見たのですが18歳未満禁止だったけれど、それがなんだというか、泥臭く大きな女の子が(私のこと)何を好もうか何に魅かれようか世の中には一切関係ないことでした。ただあの当時、タブーを破り、見せたことがないものを可視化させる。それは進化のカタチの一つだし、誰もやったことがない事をなし遂げる。岩下志麻さんと中村吉右衛門さんの、近松門左衛門の戯曲が墨で書かれた床の上での官能的なラブシーンで篠田監督が表現したかったのは、有無を言わせぬ美しさだったのかと思います。

 ありのままの自分として、今やりたい事、見せたいものを自分の意志で自由に表出する術を得るということが、レゾン・デートル、自分が存在する理由なのでしょう。可能性の翼が拡がる瞬間。生きているんだっていう力強い途轍もない躍動感。心を解き放つことで、自分が生きられるということ。ただ自分が表現したいということにこだわると、がんじがらめになって小さなものになってしまうし、私たちはいつも何かの仮面をつけて生きていて、何かを演じているということを忘れてはいけないし、それで何とか日々暮らしているのです。でもコロナ禍で毎日紛争や地震や災害のニュースを見ていると、この先に何が待ち受けているのか全く分からないと感じながら、それでも希望を持って生きて行くにはどうしたらいいかと思う時に、自分が自分であり続けることが、他者を認め、多民族とも共存していく方法であり、だから表現方法の中に耽美とか官能とか、惑溺とかそういうものを入れることも、生きるエネルギーであり、深く下りて行って取り出した自分の中のエートスなのかもしれず、それが深い井戸の底で誰かの何かと繋がっていると信じられるからなのです。

 

 私は着物や帯たちのことを考えます。人間が着ることを前提として成り立っている着物たちだけれど、これから着物を着るにふさわしい気候であり続けるか、きちんと着物を着て帯を締めることが暑くてできなかったり、気分を悪くしてしまいそうな時、ふと帯は背中で四角い形でいることが綺麗なのか、と疑問に思ったりしています。

 

 さっきふっと気が付いた。使われない帯や着物が沢山あり、多分使われないで終わってしまうかもしれない。作りこもう、スガシカオさんのよくわからない歌を聴き込んで、着なくてもいい、置いてもいい、小物を使ってもいい、彼の曲の着物をスタイリングしておこう。想像と記憶と、そして意味を持つ着物のスタイリングをしてみよう。シーラさんのように。