おじいさんのランプ

 私は小さい時から病弱で、自家中毒という病気に良くかかり、嘔吐を繰り返すようになると、母におんぶされて近くの病院に通いました。自家中毒とは、普段は元気な子どもが急に何回も吐く症状が数日続き、また元気になることを繰り返す病気で、周期性嘔吐症とも言われます。「自家」の意味は「体の外からやってきた毒物による中毒症状ではなく、自分の体の中でできた物質による中毒症状」という意味で、自分の家という意味ではありません。よりわかりやすく伝えるために日本の医師が考えた呼び名だそうです。

 幼稚園も半分くらいしか通えず、小学校に入ってからも腎臓病や肝臓病にかかって長期欠席をしていました。あまり学校が好きでなかったのか、日の当たる部屋で布団に入りながら、いろいろな童話を積み上げて読んでいるのが幸せで、とにかくたくさんの本を読みました。

 娘が着物研究家のシーラ・クリフさんの”Kimono-Style”という記事のサイトを教えてくれて、今シーラさんは浴衣が縫えるように、100年の歴史を持つ由緒ある和裁教室で、伝統的な着物の作り方を学んでいるのですが、初代の岩本喜三郎さんという方は、もともとランプや行灯などの油を売る家に生まれたものの、電気の普及に従って家業が廃業になり、奉公先の和裁屋でその技術を学んだあと独立、「岩本和裁」を創業しました。柔軟な発想の持ち主だった彼は、戦時中、ミシンで軍服を縫った経験から、和裁にもミシンを導入し、雑誌『主婦之友』が主催する講座で一般の方向けに和裁教室を開くなど、和装の振興に務めました。新宿にある寺院、正受院に奉納されている針供養の衣装は、初代喜三郎さんによるものだといいます。

 小さい頃愛読していた新美南吉の童話集に「おじいさんのランプ」というのがあって、行灯くらいしか灯りがなかった村に育った孤独な少年が、町で見かけたランプの灯りに衝撃を受け、ランプ売りとなり懸命に働いて繁盛するのですが、電気が普及するようになり、ランプが廃れていくその瞬間に、己のステータスシンボルだったランプを全て割ってしまい、自分の商売を終わらせるというものなのです。初代喜三郎さんの家がランプや行灯の油を売る家だったと知った時、走馬灯のように布団の中で読んだ新美南吉の世界が蘇り、孫に「ランプ全部壊してしまって、馬鹿しちゃったね、まだ使っているところだってあったでしょう」と言われた時に、「そうかも知れなかったけれど、自分の商売の辞め方はこうだったんだよ」と語るおじいちゃんの言葉は、私の奥底の抽斗にずっとしまってあったのです。

 このところ何かのきっかけがあると、心の奥底にあるものといくらでもつながる感覚が強くて、通信回線が不良で混乱している現在なのに、無意識の領域ではいろいろな啓示があるのです。新美南吉は29歳で結核でなくなったけれど、「牛を繋いだ椿の木」や「最後の胡弓弾き」などの作品は、今改めてネットで読み返しても、深く心に残ります。今、私の回線がここにたどり着いたきっかけは、初代喜三郎さんの名前を継いだ、爽やかな笑顔が素敵な若きひ孫のキサブローさんの存在で、ひいおじいちゃんの喜三郎さんのことを「歌舞伎の衣装から色柄を持ってきて、組み合わせたりしていて、いま見てもすごく自由なんです。いまだに曽祖父名義で年賀状が届きますし、存命中からの知人の方が私の展示会へ来てくださったり、親族からいろんな話を聞いたりして、はちゃめちゃでも良いんだな、って。名前を継いだのも、世襲制や古風な名前に憧れていたからなんです。自分で何か表現するんだったら、『キサブロー』と名乗ろう、と。響きがカッコいいじゃないですか(笑)」と語っているのです。

 キサブローさんは着物について、お直しすれば何世代にも渡って着られ、直線裁断で布のはぎれがほとんど出ないという、サスティナブルで合理的なつくりが魅力的だと語ります。「デザインに洋服の要素を取り入れることもあるのですが、無理して現代に合わせようと立体裁断などをすると、着物本来の良さが薄れてしまうんです。直線裁ちで残布を出さずに、反物を余すところなく使う。本質的にエコなものづくりが脈々と受け継がれてきたことに、敬意を表したいと考えています」

 海外でも活動するキサブローさんは、現地の方が自由に着物を捉える様子に刺激を受けると言います。「ブラジルで和裁のワークショップを行なったときは、紐をわざとたらして結べるようにしたり、袖を短くしたり、こちらが何も言わなくても自由にカスタマイズしてくれるんです。私たち日本人に怒られるかも、と不安に思いながらも、やっぱりそういうのが楽しいらしくて。『すごく嬉しいし、インスピレーションが湧きます』とお伝えしたら、安心してくださって」

 「今、私たちがイメージする着物の基本的な形は、江戸時代後期からほとんど変わっていませんが、それ以前は流行に応じて袖の形や帯の位置も変わっていました。そもそも『おはしょり』ができたのも江戸時代からだし、『衣紋を抜く』のも衿に鬢付け油が付かないようにするためで、割と歴史が浅いもので、歌舞伎役者や吉原の遊女なんかを真似して、着こなしが進化していったのだと思います。」「今、多くの人にとっては、ハレの日に着物か、あるいは花火大会に浴衣を着るか、くらいしか選択肢がありません。もっとTシャツを選ぶような感覚で、日ごろのファッションに取り入れてもらえるようにしたいんです。今日はジャケットじゃなくて、羽織にしようかな」って、オフィスウェアにも最適だと思いますよ。」コロナ禍の中で和裁教室は受講者が増え、特に男性からの問い合わせも増えていると言います。

 キサブローさんは、この災禍の時だからこそ、古き日本から学ぶことも多いと語ります。「苦難のとき、身を守るための手段として魔除けを用いていた。そうやって生き抜いてきたんですよね。昔のことを掘り起こしてみると、いまの私たちにも通じるところ、共感できる部分がたくさんあるんです。『鯔背(いなせ)』という言葉も、髷(まげ)を定位置から少しずらす『鯔背銀杏』という髪型がカッコいいとされた美意識から来ているんです。規範や常識とされているものから少し外れることをも良しとして、オルタナティブでいる。そうやって、私も着物以外のジャンルとコラボレーションしながら、着物のあり方を再構築していけたらと考えています」

 「イタリアのジャパンウィークに参加したときに悔しかったのは、日伊の関係者や政府の方々が視察に来られていて、みなさんスーツをお召しになっていたのですが、どうも日本人は様にならないというか、イタリアの方と比べると見劣りしてしまって。こんなときに着物を着てくださっていたら、どれほどカッコよかっただろう、と。恰幅の良い方でも貫禄が出るし、華奢な方でも寸法がピッタリ合う。反物の幅は日本人の体型に合った形で作られている。着るだけで印象を焼き付けられるんです。相手も『サムライだ!』って喜ぶし、こんな有効なカードを使わない手はない。着るだけでいいんです(笑)」

 いわば、着物はあくまで「ケ」の日常着として、そのときそのときの風俗や流行を反映していたものが、ある一定の時期から「ハレ」のものと見なされ、「守るべき伝統」として、変化することから遠ざかってしまったと言えるのではないでしょうか。キサブローさんはそんな着物に「日常」を取り戻し、もっと自由に着こなしてもらいたいと考えています。

 日曜日に、福岡で行われたNHK ののど自慢大会を見ていたら、ノリの養殖一筋に生きてきた70代の男性が、紺の薄い着物に茶色の三尺帯をただぐるぐる巻いて締め、裸足で雪駄を履いて渋い声で「浪曲子守歌」を歌ったのを聞いていて、あまりのカッコよさに私は痺れてしまいました。高倉健のやくざ映画をたくさん見ている夫は、これが日本人の着物姿だと絶賛しています。こうやって普通に着物を着て生きている方々が各地に沢山いるのでしょう。

 

 小さい時から自分の体の中の毒で中毒を繰り返していたネガティブな私は、本当の自分をさらけ出すことが、みんなの前では決してプラスにならないとわかっているから、仮面をつけて何とか生きてきました。でも、人生の終わりに近づいていくにつれて、自分が抱えている暗い情熱のようなものが、沢山の外国のゲストと接触していた時に、私の核となり、それを持っていることで思いもかけない触れ合いができてきたことに気が付きました。異国の言葉で考えていることを懸命に話すことは、私にとって本当の自分をさらけ出す回線であり、そうしているうちに、今まで抱えてきた孤独からも脱出できていたのです。「孤独」と「ピュアな純真な心」の葛藤を抱えているゲストに着物を着せ、柴又の参道の青い空をバックに写真を撮った時、空の向こうに何かが現れていたような気がします。

 努力するのはできるけれど、その努力が正解だったかわからない。その時は一歩一歩進んで行く気がしていたけれど、しばらくすると三歩戻ってしまい、呆れられてしまうような毎日が続きました。みんなうまく前に歩いて居るのに何で私はそれができないのか、涙も出ないほど落ち込んで嘆く日が多かったけれど、半世紀近くそんな日を過ごしてきて、今初めてネガティブも重なれば確実に未来の何かの一歩になるとわかり、成功するとか夢がかなうとかいうものでなくて、もうそれだけの事ではなくて、何一つ無駄なことはなくて、だから無意識につながっている人の魂まで見ることができる。その時に自分の持っている何かのもので、何かの表現をしていけばいいのではないか。息をするように、ものを愛でるように。ネガティブな日々が続く今の状況のなかで、その波動に慣れている私は、そこに自分のネガティブさを掛けると、プラスになることがあるのもわかってきているのです。

 世界情況は悪化の一途を辿り、簡単にいろいろな条約が取り決められたり、不利な条件が勝手に押し付けられてきている中で、状況をきちんと把握し、できうる限りの手を打ちながらさらに自分のやりたいことを、高みを目指して進んで行かなければならないこの時に、渋谷で外飲みして泥酔して道に寝っ転がる若者たちの姿がニュースで映し出されています。昔のヤンキーや暴走族?ではない、きちんと履いた靴を揃えて道端に寝ているこの男の子は、悪さをしたこともなく、真面目に勉強して学生時代を送っているうちコロナ感染が広がり、どこへも行けず飲み会もない生活を過ごしてきて、もう我慢できないとみんなでつるんでお酒を道端に座って飲み、熱帯夜の暑さに気分も悪くなってしまったのかもしれません。でも、もう誰も助けてくれない世の中になるかもしれないのです。自分の身は自分で守るしかない。

 

 猛暑の後に通信障害がきて、電力や水不足が心配される中、台風が日本列島を横断するとニュースで言っています。時代が変わり、大事に商ってきたランプの存在価値がなくなると知った時の、おじいさんの行動、日露戦争に召集される前に、道行く人のために自分でお金を貯めて井戸を作り、冷たい水を皆で飲めるようにして、嬉しい気持ちで出征してもう戻って来なかった海蔵さんの話、いろんな時代のいろんな話を思い出していると、それらは昔むかしの事ではもはやなくなっているのかもしれない、そんな時に残るのは、一人一人が持っている自分だけのかけがえのない核を大事にできるかということでしょう。すべてを失っても、ぜったいになくならないものを、今も”おじいさんのランプ”は照らしているのです。