海辺のカフカ

 国家が国家を抹殺するための一番初めの方法は、人間の意識下に悪を刷り込むことであったのかもしれない。では善はどうしたらそれに対抗して存在出来るのか。

 オイディプス王で「父を殺し、母と交わる」という呪いをかけられたように、同じ呪いをかけられた「海辺のカフカ」の少年が、この非情な呪いを回避するためには想像の世界で呪いを遂行することによってしか、現実の世界で呪いを回避することはできないと知る、想像(夢)の世界に存在しているもう一人の自分を認めない限り、呪いを打破することはできないと認識するのです。想像の世界の入り口を開くこととは、時間の概念もなく、死者とほんの一部の生者だけが足を踏み入れることが出来るので、こじ開けられた石を通して、想像の世界と現実の世界を往復出来るようになる、確固たる想像の世界を作り上げ、そこで呪いを遂行することで、呪縛から解き放たれる。想像の器を持っているか否かがとても大切なこととなっているのです。

 1995年以降、阪神淡路大震災や社会の闇の部分が表出したオウム事件が発生し、そして狂乱のバブル崩壊後、喪失感の中起こった神戸連続児童殺傷事件で犯人が少年だったことに人々は震撼し、感受性や想像力を失った社会は子供たちの心を歪め、彼らは暴発していきました。それからもテロや災害が次々起こり、東北を襲った大地震や津波、コロナウィルス、そして今起きている事。

 カフカ君は善の霊魂の手助けによって入り口の石が見つけ出され、開かれた入り口から異界に入り、時間も記憶もない世界で時を過ごし通過していく。砂嵐のような通過儀礼の渦中で嵐はいつも自分の目のまえにあり自分の中で起こる。逃れることは不可能で、足を踏み入れ、一歩一歩通り抜けなければならない。そこにはおそらく太陽も月も方向もなく、ある場合にはまっとうな時間さえもない。そこには骨を砕くような白く細かい砂が空高く舞っているだけだ。それはまるで今ニュースで見た、攻撃されている街のようです。すべてが破壊され、水すらもない。人々は一体何と戦っているのでしょう。権力者と呼ばれる実態のない彼は、人間の体をなしているだけで、本体は人間存在の中の邪悪であり、ぬるぬるし頭も尻尾もない、悪しき意志だけを持つ邪悪という生き物なのでしょう。それを殺すには、入り口の石を閉じて、圧倒的な偏見を持ってその存在を強固に抹殺すること、そしてその武器は自分の心の中に在る。それは鋭く生身を切り裂く。精神に強い損傷を与えようとする。他人も自分も損なわれ壊れそうになるけれど、困難辛苦の試練を通り抜け、以前の自分とは違って、呪いを打破できるタフな人間になることでしか生き延びていけない、そのタフを自分で理解すること、心とからだで体得しなければならない。戦争もコロナウィルスもテロも災害も、全てが入り口の向こう側の出来事なのかもしれない、それをからだで、心で体得してタフな人間になる試練を、砂嵐を今味わっている。これは想像のメタファーなのだ、私たちは異界の中をさまよっている。<現実=こちら側>と<非現実=あちら側>の二つの世界が交錯します。

 この小説の中で「エルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告」という本の引用があり、これはナチス親衛隊の中佐として何百人ものユダヤ人を強制収容所に送るのに最も大きな働きかけを行ったアドルフ・アイヒマンについて書かれたものです。巨悪とも呼べるナチスの実態の一部が語られているのですが、実に凡庸な人間だった彼は「自分は人間ではなく、役割を果たすだけの概念であったし、この大量殺戮に対して、自分は一人の良心的な官僚として役割を遂行しただけで罪悪感がない」と主張しているのです。

 「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は、想像力の中から始まる精神のゆがみから自分を取り戻すこと。それが今の権力者はできない。憑りついた悪の退治をするには、人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶことを知らなければならない。運命に選ばれた権力者たちの滅びに向かう瞬間を私たちは見届けるために、ただひたすらタフにならなければいけない。」こんなにあからさまになったそれを見届け、想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ、独り歩きするテーゼ、空虚な用語、簒奪された理想、硬直したシステムを乗り越えなければなりません。人生は自分だけのものとだけ認識し、自分が虚ろであるということには自覚的でなくなってしまった無感覚な虚ろな人間が、今世界をかき回している、こんなにあらわに、そしてそういうものを心から恐れ憎むことが、生きるための大切なことだということを、こんなにあらわに感じたことはないのです。歴史は受験勉強でもなく、自分が生きて行くためのエートスを発見していく大事な資料である、私たちの間違いを、人生は自分だけのものではないことを考えなければならないのです。私たちはみんな、いろんな大事なものを失い続ける、大事な機会や可能性や、取り返しのつかない感情、でもそれが生きることの一つの意味だ。でも私たちの頭の中には、そういうものをとどめておくための小さな部屋があるのです。

 村上春樹の小説は「絶対悪」「戦争」「暴力」などに対して、「森」「入り口の石」を通じて異界を訪れ、自身の「影」や「潜在意識」との葛藤を体験し、これを乗り越えて、自由な自我を得て生きていくことの試練と正当性を問いかけていて、呪縛を祓うものは愛情であるとメッセージしています。「私が小説を書く理由は一つしかありません。それは、個々の魂の尊厳を浮き彫りにし、光をあてるためなのです。物語の目的は警鐘を鳴らすことです。システムが我々の魂をそのクモの糸の中にからめとり、おとしめるのを防ぐために、システムに常に目を光らせているように。私は物語を通じて人々の魂がかけがえのないものであることを示し続けることが、作家の義務であることを信じて疑いません」 世界の万物はメタファーだ。

 

 この世界の、時代の境目に、ワールドワイドに支持されている何人かの優れた人たちの存在と、リアルタイムで見続けられる運命は、やはり神が与えてくれた恩寵としか思えません。混沌も、混沌の中に見える希望も、皆同じ人間の中に在るものだとしたら、圧倒的な偏見を持って、邪悪なものの存在を強固に抹殺出来るほどタフになることしかない、今起きていることは、全て必然なのです。