背守り

 背守りとは、子供の着物の背中に縫い付けたお守りの事です。着物を作る時には、左右の身頃となる布を縫い合わせるため、背骨に沿って「背縫い」という縫い目ができます。昔の人は、「目」には魔除けの力があると信じており、背縫いの「縫い目」にも背後から忍び寄る魔を防ぐ力があるとしていました。また、人間の魂は背中から出入りすると考えていて、魂が身体から出てしまうと体調が悪くなったり、ボーッとしたりしてしまい、それが長く続くことで死に至ると言われています。ところが赤ちゃんが着る着物はとても小さく背縫いがないので、お母さんたちは子供に魔が寄り付かないように背中にお守りを縫い付けたのです。

 「7歳までは神の子」「7つまでは神のうち」という言葉にもあるように、7歳までの小さな子供はより不安定な魂を持った存在だと思われていました。何かの拍子にポロっと魂を落としてしまい、いつ神さまのところに返ってもおかしくない、いつ死んでしまってもおかしくないような存在です。そのため背中にお守りを付け、魂がこぼれ落ちるのを防いでいたのです。古来日本では、針目には魔物を寄せ付けない力が宿ると考えられていました。背後から忍び寄る魔物に対して、大人は着物に背縫いがあることで守られていて、そして背縫いがない乳幼児の着物には、わざわざ糸目を施して魔除けとしたのです。

 若い頃和裁教室に通っていた私は、肌襦袢を縫う過程を終えてから、子供の一つ身の浴衣を縫い、背守りも教わりながら付けました。その時意味は先生から聞いたものの、そんなに強く思うことはなかったのですが、最近着物デザイナーのキサブローさんの”魔除け”という動画を見たりした時から、魔除けということに気持ちが引かれ、背守りも縫ったなと思い出しながらいろいろ調べていると、人間の背中とはとても大事なものだということに気が付きました。

 小さい時から背が高い私は、同級生より頭一つ大きくて、どうしても背中を丸めてしまう癖が付き、最近は夫に「背中が丸い、もっとババアに見えるぞ!」と注意されていて、去年の健康診断では170㎝あった身長がとうとう169㎝になってしまい、とにかく姿勢に気を付けようとしています。でも人間の魂は背中から出入りするとか、背後から忍び寄る魔物に対して背縫いがあるから守られているとか知ると、背中はとても大事で、着物を着るにしても背中というものに意識を強く充てる必要がある気がしてきました。

 

 若い時は自分が何をやっているかわからなくて、劣等感にさいなまれることも多いし、他人を羨んだり他人から馬鹿にされたりすることもあったけれど、大切なのは自分ではない誰かになろうとするよりも、本来の自分に立ち返って生まれつき持った資質を育てていくことにある。それがご先祖への恩返しにも自然に結びついていくし、堂々と生きて行くことが総合的に人生が美しくなっていくということに今更ながら気がついています。先祖から戴いた美しいDNAを活かし、躊躇せず与えられたギフトを大胆に表現していくこと、それを突き詰めることが、いろいろな人々の心に何かのギフトを与えられるようになる。それができていくことで、自分の背中に自信が持てるようになる。

「人を説得するだけのオーラというものは、その子がどんな事をしてきたか、どんな事で自信をつけてきたか、そして心の感動みたいなものをどれだけ経験してきたか、たくさん綺麗なものに触れ感動してきたかで出ます。私が以前心がけさせたのは、本物に触れさせることです。」ノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんが、研究者が社会や産業を大きく変える研究や開発ができる要因を感じとれるかは、その人の感受性の問題で、それにずば抜けて得意な科目、将来自分の武器になるものを持ちつつ、全然関係ない分野も含めて広く関心を持ち続け、一般教養を身につけていくと、自分の得意分野の中で誰も考えつかないような独創的な研究ができるのだと言っています。

 ずっと続くであろうコロナウィルスによる世界中の混乱や、あちこちで見られる醜い権力闘争の中で、どうしたら良いかと右往左往している私たちにとって一番必要なのは危機感の感覚であり、そこからどうやって自分達を自分達で守るかの知恵を育てるということで、この違和感、緊張に耐えられ、先に進んで行く能力こそがこれから必要とされていくものだと実感しています。吉野彰さんの言う様に、もはや研究や開発も企業や自分たちの利益を優先するためのものではなくなり、社会を救い自分達を守らなければならないという切羽詰まったシチュエーションの中で進んで行くようになるのなら、私たちは自分達を救うような独創的な研究ができる感受性をどうやったら子供たちに持たせることができるかということを考えなければならないのです。

 バレエダンサーの熊川哲也さんは、芸術とは自身が自分の中の光を外に発するためにするもので、自分の内側で蠢く生命体のような塊を一つの作品として具現化し外に解き放つことで生きて行くことだ、そして体の奥から湧き上がる衝動や頭の中に生まれる妄想に蓋をしてしまうと息が出来ず窒息してしまう、人間はだれしも何かをして生きて行かなければならない、烈風にさらされても一人で立ち続ける強さが必要で、精神的な強さは、舞台表現に必ず現れるといいます。空気をまとい交流するように、空気を感じ見えないものを感じながら踊る事、心でしか見えないものを見ながら、時空を越えた世界を表現したいという熊川さんは、もうオーラやスピリットそのものになっています。神は細部に宿る、だから細かいディテールにこだわることで本質が決まるし、その世界に入り込みその役を通した向こう側の世界を感じてほしい、戯曲に書かれた心と作家がその時代にどういう思いで書いたのかを想像する力、それを美しく見せられる技術など、すべてを統一的に表現できたものが優れた舞台美術で、要するに何かができていれば、何でもできるのですと熊川さんは言っています。

 これから生きていく上に必要なものは「オーラ」や「スピリット」だということ、運命に翻弄されない自分の座標軸をちゃんと持っていれば、逆に運命に対して主導権を握ることが出来る。物事をそのまま受け入れるというのは、ずいぶん体力のいることだと思います。自分のやってきたことの意味を問い直し、光もそして影もできる限り正直に正確に認めた上で座標軸を作ること。

 スノーボードで活躍している平野歩夢選手は、一日2~3時間は一人で考える時間を作っているというZ世代の若者なのですが、あえて大変な道を進みながら、「人はいろんな負荷がかかればかかるほど、身軽になるんじゃないか」「どれが正解なんてない、自分が何をしたいかだけだ」と、さらっと言ってのけます。あらゆる意見や批判も身軽になるための負荷と思える度量を持つ若者は、今も昔もたくさんいるのでした。

 

 お盆の入りを前に、突然予約が入ったり、出かける予定が入ったり、慌ただしくなってきました。仏壇の掃除をしてお盆の飾り付けて提灯を出して、できればお墓掃除にも行きたいのですが、今日からまた暑くなりそうです。だんだん目が見えなくなってきている時に、背中にある目が意識できたというのも何かのしるしでしょう。背守りの感覚が、着物を着ることに一つの意味をもたらすような気がしています。