蓮の花

 おとといは雨が降っていて、ゲストのイギリス人のリンゼーと柴又に行けなかったので、庭園の受付をしている方に借りていた雑誌を返すため、昨日の午前中帝釈様へ行ってきました。時々霧雨のような細かい雨が降り、境内もほとんど参詣客もいなくて、暑かったり雨が続いて「人出が本当に少ないのです」と、参道の方も嘆いています。

 久しぶりにお賽銭を入れて、静かに参拝してふと目を上げると、傍にあるいくつかの鉢に蓮の花がたくさん咲いているのに気が付き、近くに行って写メを撮りました。コロナ以後、蓮の花を見るのは初めてだなと思いながら、誰も来ない時でも蓮の花はいつも咲いていることに気が付きました。5年くらい前にアルゼンチンから日本で空手を学んでいる息子に会いに来たクラウディアと旦那様は、知り合いのエアビーの家に泊まって東京を散策していたのですが、旦那様は柴又がいたく気に入り、滞在中毎朝20分くらい歩いてお寺に通い、蓮の花が今日はいくつ咲いているか見るのが楽しみだと言っていました。彼は英語が話せず、私が簡単なスペイン語で話そうとすると、奥様のクラウディアが英語でマシンガントークしてきて話を取ってしまうのが面白かったのですが、「柴又まで歩くのはちっとも大変じゃない、だってアルゼンチンは広大な国で、歩いても歩いても向こうにつかないくらいだからね」と言っていたのを、今も覚えています。

 そうだ、あのアルゼンチンパパもこの蓮の花を毎朝一人で眺めていたんだと思った時、不意に私は、わかりました。ヨーロッパでは猛暑による山火事が相次ぎ、トルコでもポルトガルでもスぺインでもフランスでも火が燃えさかっていて、そしてウクライナでは戦闘が続き破壊された町の映像が映し出され、コロナウィルスはまた猛威を振るいだし、自分の心を乱すまいとして、その反動で人を殺すことに集中する人間も現れ、そして毎日雨が降り続いてすべてがどんより濁って見える、白内障の私の目なのに、蓮の花の神々しさがはっきり見えたのです。

 なんだかわからないけれど、全ての淀みは、その向こうにある 突き詰めたもの、魂、神、天、エートス、の神々しい美しさに気が付くために存在している、それが今起きているすべてのことのレゾン・デートルなのでしょうか。全てに意味がある、あらゆる邪悪さの向こうに、蓮の花の神々しさがある。いやそうではなくて、あらゆる邪悪を含んで、なおかつ神々しいのが蓮の花なのかもしれません。苦しい厳しい修行を積んで悟りを開き、それをみんなに伝えるため果てしない旅を続けてきたお釈迦様が、亡くなる前に残した言葉は「すべては移ろい、変化し、過ぎ去るものである。怠ることなく精進せよ」でした。「自己こそが自分の主であり、法の奴隷となることなく、自分自身の人生を生きなくてはならない。誰かの言いなりになったままでは、心の平穏はない。他者に分け与えられるものにこそ、功徳があり、むさぼりや怒り、愚かさを打ち砕き、人の心を超越する」

 善と悪は分かれているものではなく、一つの物でそれは自分の中にいつもあって、相反する想いがせめぎ合い、だから人は苦しみ悩み、自分の悪を憎悪しながら、それに飲みこまれた方が楽だとさえ思ってしまう。でもそれらの思いを全て超越してしまうような、蓮の花の美しさを見た時、その気高いエートスを感じた時、自分が浄化され、その存在も全て肯定されていいものだと気づくのです。 

 これまでゲスト達を連れてこのお寺を何百回と訪れたその理由は、このことに私が気づくことでした。長かった、長くかかった。でも今なのでしょう。やっと心からこのお寺の存在する意味を説明することができる、引退表明しようとしている時にわかるなんて遅すぎるけれど、今なのです。

 蓮の花の写真をスマホの待ち受けにしました。

 私たちの生きている意味は、レゾン・デートルは、世界は美しいということを認識することでした。自分のテリトリーで、自分のツールを磨いてより美しいものを作り上げる努力をする、そのために日本文化も着物もティーセレモニーも存在していた。人を救えるのは世界の美しさだけなのかもしれない。美しさに近づくために、だから私たちは努力し続けるのです。