とんがり焼きの盛衰  再び

 ブログを書き始めて五年になります。いろいろ操作を間違えるので、コメント欄もなくなってしまい、ただ一方的に書いているだけなのですが、マイクロソフトやヤフーで検索すると、それぞれ閲覧数がでたり、今まで書いたブログが二十個ぐらい出てきて、これは読まれたから出てくるのかしらと不思議に思いながら、自分でも新しく出てくる、前に書いたブログを読むのが面白くて、こんなこと書いていたんだと感心?したり、どれが受けるのかわからないけれど、受けないものは受けないなと改めて実感しています。

 受けないなと思っていた去年の十月に書いた村上春樹の短編「とんがり焼きの盛衰」についてのブログが、なぜか今日の閲覧ブログの中に入っていて、何で今頃これが出てきたのかと思って読んで見たら、面白いのです。村上春樹ライブラリーが早稲田大学の中に出来て、作家の小川洋子さんと村上さんの朗読会で、村上さんが読んだのが「とんがり焼きの盛衰」なのですが、これは旧弊たる文学業界に属さない村上さんだから、芥川賞も取れなかったという実話なのだそうです。

 我が道を行く村上さんは芥川賞もノーベル賞も縁がないようですが、私はそれよりもこのとんがり鴉のような、旧弊たる老人たちの集団が、夫の属していた業界でも、採点競技のスポーツ競技でも、皆を苦しめ発展を阻止しているのをずっと見てきたので、よくぞ村上さんはこの短編を朗読してくれたなと感動しています。醜いことをしている人間が自分で自分の事がわからないのは、とんがり鴉のようにとっくに目がつぶれて見ることができないからだった、それにもかかわらず、とんがり鴉同士で肉を食い合ったり見えない目を突き合ったりしている。最近はSNSなどで自分の顔を隠して相手を誹謗中傷する輩も増えているけれど、それを阻止しろとか取り締まれとか言っても仕方ない気がします。結局人を苦しめるのはその人の遺伝子の問題だと書いてあるのを読んで納得したのですが、それで多くの人が救われたり喜ぶのなら良いけれど、とんがり焼きしか認めない目のつぶれたとんがり鴉の集団の動向だけに囚われる必要はない。

 自分の魂にとって最も純粋な在り方とは、心の情熱に真っ直ぐに従うことであり、そこで生まれた行動力に愛という方向性を持たせること、個人の小さな情熱が社会を大きな変容に導く時だから、自分の道を堂々とつきすすめばいいのです。風の時代の今は、マイノリティ(少数派)がマジョリティ(多数派)をひっくり返す時代でもあるそうです。自分の選択を信じて突き進むことを、村上さんは朗読を通して教えてくれています。

 「現実は目に見えている形に限らない」 「異なる視点に触れることで、他者への想像力は育まれる」想像力というのは記憶。記憶が絡み合って想像力になる  この世の本質はすべてエネルギーで、目に見えない波動が時間をかけて結晶化したものが、いま目に映っていて、自分が放った波動がまるで鏡写しのように世界からはね返っています。