自分を生きる覚悟

 おとといからお客様が途切れず、着物の準備やティーセレモニーの支度などするために、この前片付けたものをまた階下におろしてセッティングしたリ、久しぶりに忙しくしていたら、私のエネルギーが途中で切れてしまいました。最近のエアビーのゲストは前日予約が多く、当日年齢やサイズがわかって、それから何をお着せするか悩みながら箪笥から着物を出していると、頭の中が混乱してきます。それでも今までの経験値から、たとえ50代でも赤い振袖を着ると綺麗で喜ばれることがわかってきたので、50歳のアメリカから来ているゲストのために色々用意して、お昼ご飯を食べて、頑張れと自分を励ましてゲストを迎えました。

 15分早く来たゲストのジェニファーはエンジニアで二週間沖縄、広島、京都、東京で働き、明日アメリカに帰るとのこと、割と大柄でグラマーな、二人の娘さんを持つ陽気なママでした。ところが京都で着物やお茶体験をしてきて、写メを見せてもらったら紅型のような赤い着物を着て大きな髪飾りを付け、立派な庭園を前に微笑んでいる綺麗な彼女の写真を見て、これではうちで何をやっても二番煎じになってしまうと気が付いて、これから4時間どうやって体験を組み立てようか、不安になってきました。ジェニファーは今までに来たゲストの着物姿の写真を見ることもなく、色の好みとか何を着たいということもないようですが、とりあえず赤い振袖を着てもらっていつものように夫が写真を撮り、ティーセレモニーをして、浴衣に着替えて柴又へ出かけるため外に出たら、突然彼女はとても楽しいと言って、いつものように相手をしてくれた夫の事も褒めてくれるのです。京都での着物体験をしているから、高砂という東京のはずれの町の散策もダサいのではないかと危惧しながら、訥々と会話しているうちにわかったのは、彼女の民族性とアイデンティティで、アメリカ人にしては聞き取りやすい英語だし、単語や間投詞も意外な言葉を使う気がして、私も必死で拙く話しながら、だんだん何かゾーンに入ってきている気がしていました。

 日曜日だけれど柴又の参道はわりと静かでしたが、境内に入ってわかったのは彼女の宗教と仏教は相容れないものだったことで、そうなると仏教彫刻も寺の存在も説明価値がなくなり、単なる文化鑑賞になってしまったのです。暑い中浴衣着て歩かせてしまって申し訳ないなと思いつつ、今まで見た映画や読んだ本やゲスト達のエピソードなど交えて話しながら、彼女の存在をどう私が受け入れればいいのか考えていたのですが、三年前に来た若い綺麗な才能あふれるゲストの女の子が、帰り際に悲しそうな顔をしながら日本語で言った「私の祖先はネイティブ・インディアンなのです」という言葉に、私は何も反応できなかったことを告げた時、ジェニファーはたくさん言葉を返してくれ、必死で彼女の目を見ながら理解しようと努力していた時、この空間の中に彼女のアイデンティティと私のもがきと、ネイティブ・インディアンだと言った女の子の魂が、時空を越えて繋がって、ただそこに“在る”ということを感じていました。

 十代の頃、マックスウェーバーについての自主公開講座に通っていたことがあって、その時マルティン・ブーバーの”我と汝”という哲学的思想に強く魅かれていたので、無謀にもその講座でそんなことを発表したことがあり、場所が東大駒場だったから優秀な東大生に冷ややかにあしらわれてしまい、でも講師の折原浩先生には、もっと考え続けて下さいと温かい励ましのお言葉を掛けて戴いた記憶があります。それから50年たって、やっとわたしはブーバーの思想をほんの少し体感することができた。それはやはりジェニファーと一緒に過ごし、必死になって理解し感じようとした時の気配の重みであり、その場が帝釈様の仏教彫刻の前であり、汗を流しながら彼女は日本の伝統文化をまとってくれていたからなのでした。めちゃくちゃで混沌としている私のエアビーの「体験」の意味は、”我と汝" 私とあなた、ジェニファーと私の関係性の中に在った。「私が私で在ることは、かくのごとく相手によって流動する。全て真の生は出合いである。」

 ブーバーによれば、人間のとる態度には「我―汝」による主体的な出合いを遂げる道と、客観的な関係を示す「我ーそれ」の二つの道があり、「我―汝」の出合いに生きる実現によって現代の人間の危機を克服できるというのです。「どういう言葉を語るかによって、我々が何を見るかが決まる。何を見るかが決まるということは、その態度が決まるということである。態度が決まるということは、どういう世界を生きるかが決まるということである。何かを学ぶということは,教わるということではない。 未知の他者に対して,もがきながら対話し,未だ知らない自分自身と出会うことである。」

 

 私が昨日ジェニファーと会って過ごしたことはこういうことだったと、50年前に読んだブーバーの本に書いてあったのです。50年の間に、いろんなことがありました。楽しいこと、嬉しいこと、つらいこと、苦しいこと。でも「苦しみは人生の真理が姿を変えたものであり、神が貴方と一緒にいるという合図である。真の人間性は、利害関係のない人や、立場が下の人に対して、どのような態度を取るかでわかるのです。人は成長するほど孤独になっていく。しかし孤独になるほど真の出合いは近づいている。真理を掴むには、権威ではなく魂の声に従え。真理を伝えるには、単純素朴な事実のみを語れ。荒々しい波に乗ったサーファーほど遠くまで進むように、荒々しい運命に載った人ほど進歩していく。人生における最高の価値を掴むためには、危険に満ちた冒険に旅立たなければならない。神は苦難で人間を鋭い矢にする。ふさわしい時期が来たとき世界に向けて放つために。」

 

 直接聞いたわけではないのですが、ジェニファーの民族性は優秀で、子供たちをどんな風に育てていくのかというサイトを見ていたら、「世の中をよくするために勉強するのだ」とまず子供に学ぶことの目的を教え、高い志を持たせるのだそうです。個性を大切にし、得意分野で優越させ、全人格を向上させること、想像力(創造力)を養う、生涯を通じて学ぶことを教える、これは付け焼刃で考えることではなく、長いことかかって蓄積された民族のアイデンティティから紡ぎ出されたものなのでしょう。

 

 自分を生きる覚悟があるかと問われて、私は今やっとあると言えます。今どきの若者たちに比べて、なんて遅い覚悟だろうと思ってしまうけれど仕方がありません。うちの子供たちが落ち着いて暮らしているのは、覚悟を持っているからなのかしら。

ライオンズゲートが開いている今、いろいろな出合いが突然やってくるのです。