ああ なんて素敵な日だ

 お盆休みに入ってすぐ台風が来て、わりと早く通り過ぎたとほっとしたら、また猛烈な暑さが戻り今日は37度とか、でも最後かもしれないから何とかしのいでいきます。義母の甥っ子さんから夫はいろいろお誘いがかかり、週末は福島の白河へ泊りがけでゴルフに行くとのこと、「あらいいわね」と言いながら、私も何か予約が入りそうな気がしています。

 スケート競技から離れた羽生選手のユーチューブが開設され、2時間以上の練習動画が公開されたりして、いろいろ追いつくのにアップアップしているのですが、練習中にリンクにかかっていた「僕のこと」という歌を口ずさみながら様々なジャンプを飛んでいる姿を見ていて、その歌詞の「ああ なんて素敵な日だ」という言葉にひどく魅かれています。みんなで旅行に行って美味しいものを食べて素晴らしい風景をみて、「ああなんて素敵な日だ」というのではない。

 「僕は何かに怯えている みんなもそうならいいな」「いつも僕は自分に言い聞かせる 明日もあるしね」「幸せと思える今日も 夢破れ挫ける今日も 諦めず足搔いている」「努力も孤独も報われないことがある だけどね それでもね 今日まで歩いてきた 日々をひとは呼ぶ それがね軌跡だと」「ああなんて素敵な日だ 幸せに悩める今日も ボロボロになれている今日も ああ息をして足搔いている」

 どんなに苦しくても、どんなにみじめな思いをしても、それでも前に進もうと努力している人が、ふと目を上げて空を見ながら、ああなんて素敵な日だということに、どれだけの人が励まされているのかと思います。自分の軸をしっかり定め、自分という存在の輪郭掴み取っていて、「私が私で在る感覚」をしっかりと再構築することが建設的な人生を築く礎になるだけでなく、自分の魂をプロテクトすることにも繋がっていっているのです。私が私を生きるということは、周りを嘆くより、純粋に自分を磨く、切磋琢磨していく中で、波動が上がり、気がつけば運気も上がり、人生の流れを変えることはいくつになっても可能なのです。弱くても、カッコ悪くても、どうしようもなく不器用でも、かけがえのない自分自身を生きる、そう本気で決断した時に初めて立ち上がって来る自分だけの道がある。

 暑さの中で、近所のお店では濃厚接触者が出てずっと休んでいたり、人通りが全くなくて品物が売れないと嘆いていたり、厳しい状況です。気持ちが萎えてしまったらおしまいなのだけれど、何とかここを凌いでいかなければなりません。世の中の状況は、これまでとは全く違ってきています。元の世界には戻らない。

 村上春樹の小説に”人は自分の為には再生できない。他の誰かのためにしかできない。死ぬのは苦しい。そしてどこまでも孤独だ。こんなに人は孤独になれるのかと感心してしまうくらいに孤独だ。でもいったん死なない事には再生もない。でも、人は生きながら死に迫ることがある"という文章がありました。

 コロナ感染はまた広がりつつあるし、気候変動の影響で、今までになかったような猛暑や干ばつが世界中で起きています。みんな自分の蒔いた種なのでしょう。ピアニストの舘野泉さんは高齢になり、左手しか動かないけれど、70年以上前の中学校時代、自分の家には電話もラジオも蓄音機もなく、隣家のラジオから流れてくるシベリウスの晩年の交響曲「タピオラ」を聞いた時、深い森が地球の果てまでも続く、永遠の沈黙を感じ、その瞬間がいまだに鮮明に聞こえてきて、そういう音楽を今、自分が弾きたいのだと言います。音楽を奏でるというのは、作曲家の思想やイメージの再生で、そこにそれを演奏するという自分の意志が加わります。そしてそれを聞く人がいる、自分の為ではない、他人の為に再生するのです。

 鬼滅の刃の映画を見た時、主人公の炭治郎が鬼の術によって眠らされ、自分の精神の核を壊されようとした時、夢の中で必死に自分の首を切って死ぬことにより、目覚めようとしたシーンも、底知れない孤独に落ち込み、苦しんでいるとしても、いったん死なない事には再生はないということを暗示しているのでしょう。

 何にせよ、苦しみは必要だった、これまでのように、何も困難のない幸せな生活は、もうないという事実に、打ちのめされ茫然と立ちすくみ頭が混乱してしまう人も多いとしても、でも自分で戦うしかないのです。苦しむ自分の首を切り、そして自分で再生する、他者の為に。私は、様々な妄念に襲われ、人を羨み悲しくてやりきれない思いになることも多いのですが、その気持ちを断ち切るには、大きなものの存在をいつも感じ、それに守られながら、自分のテリトリーで出来ることを精一杯やることだと思っています。

 最近の若者の歌というのは、哲学的だなと思うことがあります。「レゾン」を聞いた時もびっくりしたけれど、この「僕のこと」という歌にも、驚かされました。目の前の状況に対して、自分なりに精一杯考え、行動していくこと自体が、私たちの生きる支えになってくれるとわかっているから、心から言えるのです。

 「ああ なんて素敵な日だ」と。