分水嶺

  夫が福島へ泊りがけのゴルフに行ったので、昨日からこのうちに一人でいますが、今までは夜になると怖くて電気を付けたままにしたり、物音にビクビクていたのが、今日はなぜかもう全く怖くなくて、夜も虫の声をずっと聴きながら眠れていて、なんだかこの家が寄り添ってくれているような感じがしていました。

 最近は海外渡航が増えてきて、今まで誰も乗っていなかった成田行きのスカイライナーにお客さんが乗っている、そんな当たり前のことに感動していますが、海外生活の長い家族が久しぶりに日本に帰ってきて、なんていい国だと絶賛しているYouTubeを見ていると、安全で清潔で食べ物が美味しくて素晴らしいんだけれど、家が狭くて蒸し暑いのは嫌だそうです。反対にアメリカの旦那さんの家族に会いに行った日本人の奥さんは、ロスの空港で12時間待ち、物価がべらぼうに高くて円安で、ひどいと嘆いていました。でもコロナ後久しぶりに両親らと再会し、ひと時を幸せに過ごせて感無量だったとあって、こちらもほのぼのとしてしまいます。制限された生活をしていたから、余計家族のいろいろな絆を強く感じるのでしょうけれど、それがある人とない人がいて、私はそれがあった20年前とそれがない今を両方味わっているのです。実体験として思うのは、自分達がなんて幸せだろうと思った後にはどしんと落とし穴があったし、辛いな苦しいなと思い続けて生きている時には、みんな辛さを持ちながら人に思いやりを掛けてくれているということに改めて気づくのです。

 娘が20才になった時、親戚も集まって過ごしたお正月の楽しさを延々と綴った私の日記には、空の青さも小鳥のさえずりも全てが幸せに満ち満ちていると書いてあるのですが、それから2か月したある日、写真のポジとネガが入れ替わるように事態が変わり、それから3年間苦しくて苦しくて、のたうち回る心境を書き綴ることになるとは思いもしませんでした。宗教にすがったり、いろいろなことをして気持ちを静めようとしても、また朝が来て太陽が昇って、悪意に満ちた中で生活を送らなくてはならない。今日は何とか気持ちをポジティブに保てたけれど、次の日はどん底に沈んで堂々巡りをしている、どこにいても何をしても苦しい・・

 幸せと不幸は紙一重だと思うけれど、あの幸せだったお正月が一生続く人もいるのかもしれない、でもたくさん傷ついて底に沈んで、孤独と向き合っていたとき、最後に救ってくれたのは夫の実母のさださんの魂の愛でした。不出来でどうしようもない私の、幼稚園時代を知っているさださんは、まさかあの時の大きな女の子が自分の息子の嫁になるとは思いもしなかったでしょう。でも夫が20歳の時亡くなって、それから50年間やはり心配でいつも夫を見守っていて、夫への非難から始まった義母の攻撃に耐えられなくてもうだめかと思った私を、さださんは救ってくれました。

 生きていても、生きていなくても、どんな立場や境遇にあろうとも、人は生き続けるために何かの支えを出せる存在でなければならない。そしてカタルシスが起こって、底の深さと同じ大きさの反転した愛のエネルギーが出てくるようになる。認知症になった義母は、施設で仲良くなった方の毎日の救いになっているのかもしれません。

 

 しばらくぶりで海外に行ったけれど今までとは何かが違う、コロナが変えた新時代という気がしている、これからどんな方向に舵を切っていくのか、この世界は人類史上においても非常に大事な分水嶺を迎えているのだと痛感していると、アメリカに里帰りした方が書いていました。分水嶺とは異なる水系の境目を指し、分水界となっている山頂と山頂をつなぐ峰筋のことをいい、物事がどうなるのか、方向性が決まる分かれ目ということなのだそうです。地表に降った雨が、複数の水系に分かれる境界となっているところというけれど、もしそれがいまだかつて経験したことがないような豪雨だったら、どうなるのでしょう。どんな分水嶺になるのか、山ごと崩れ落ちてしまったら、洪水のように、鉄砲水のように、山自体がなくなるかもしれない。それほど今私たちは切羽詰まったところにいます。

 ターニングポイントとか曲がり角とか分かれ道というのは、今までの世界の事だったような気がしてなりません。普通に私たちが慣れ親しんできた自然の営みや美しさは、私たちの脳裏にしか刻まれなくなるのでしょうか。これからどうしたらいいか。強いのは、これまで苦しんで悩んでそこに沈んでいた私たちです。どうやったら息が吸えるか、心と身体のバランス、気持ちの持ちかた、自分の芯や軸が何処にあるか、そんなことをずっと考え続け、結局自分を偽らず生きて行くことしか、残された道はないと気がついて目を上げると、新聞やマスコミは相変わらず底辺でたたき合いをしている、もうそんなことをしている暇はないのに。

 

 六月の猛暑と早い梅雨明けで、なかなか蝉が鳴かないで心配していたのですが、最近だんだん良く鳴くようになり、なぜか朝玄関を開けて掃除をしようとすると、ひっくり返っている蝉を見つけ、そっと植え込みの中に置いてやります。蝉は卵が木の幹に産み付けられて、幼虫になってから幹を伝って地中に潜り、そこで7年も過ごして成長します。こうして大地の力をたっぷり吸収した蝉の幼虫は、ある夏の早朝に意を決して土から這い出て、自分の生まれた木に登ってじっとしながら殻を破り、日が昇るころには美しいい立派な大人の蝉として羽を広げるのです。

 蝉の鳴き声は地球との繋がりをディープに深めてくれるパワフルな音霊(おとだま)で、そこには生命力を呼び覚ますような霊力が籠っている。そうして地上では7日間の寿命を、その命の限り鳴き通すことで私たちにその恩恵をシェアして下さっている。その鳴き声には神秘的な生命の物語が折りたたまれているのです。その音霊を受け取るには、自分から耳を澄まし、意識を向けることで初めて、生命の波動とシンクロできる、蝉時雨には地球の愛との縁を深める力がある。

今まで当たり前のように聞いていた蝉の声に、こんなに深い意味があることなど知りませんでした。虫取り網を持って、公園でたくさん取った蝉、佃煮にするくらい集めたセミの抜け殻、抜けるような青い空と入道雲、そんなことがもう思い出になってしまいそうです。

 でも、今蝉は教えてくれます。すべてを大事にしなさいと。ずっと地中に潜っていて、満を持して今出てきた蝉たちは、何かを告げるために鳴いているのです。これではいけない。今すぐ気がついて、やるべきことをしなさいと。

 私はこれから神奈川の山の上にある父と母のお墓参りに行ってきます。蝉時雨を浴びたいけれど、田舎もどうなっているかわかりません。でも大丈夫、長年鍛えられているから、何があってもどうにか切り抜けて、より良い道を探していく胆力だけはついた気がします。全て無駄なことはないのでしょう。