山の上の気配

 コロナ感染が始まる直前に実母が亡くなり、四十九日で神奈川にあるお寺に納骨したのですが、オートバイのツーリングを始めた次女の旦那さんが、二回もお墓参りにいってくれて、次女からお墓の写メと共にとげの生えた蔦が茂っているし、墓石がぬるぬるしているとラインが入りました。去年の一周忌、今年の三周忌と弟一家がお寺に行っているから、綺麗にしてくれていると思っていたのだけれど、どうなっているのかと気になって、昨日久しぶりにお墓参りをしてきました。

 自宅から電車で一時間半、一時間に一本でているバスで1時間、車で行くより私は楽なのですが、コロナ感染が広がってからお寺の近くに住んでいる親戚の家に行くのも憚られ、それもあってなかなかいく気にならずにいたのです。バスに乗って山の中の道路を通っていくと、今までより緑が濃くなって、鬱蒼とした木々から絶え間なく蝉の鳴き声が聞こえてきます。コロナ前にこの地域はリニア中央新幹線が通るという計画があり、開発が始まれば山も削られ景観も変わってしまうと複雑な気持ちでいましたが、コロナ後はいろいろ問題もでてきているようでまだあまり変化なく、山はいつもより静かで深くて、私はちょっと意外な気がしてきました。この田舎が好きなので若い頃から何回も来ているのですが、その頃の雰囲気にまた戻ってきている?そんなわけはないのでしょうが、バス停で降りてお寺へ行く道を歩いて居ると、どうしても今までと違うとしか思えないのに戸惑いながら境内に入り、お寺の和尚さんにご挨拶して坂を登ってお墓の前に行きました。

 ン?何か変です。二人が何も言ってこない!えっ?何かあった?長年お墓参りをしている私は、ついてすぐお墓の前に立つと、仏様たちの気配というか反応を感じていろいろ思うのだけど、今日は二人ともよそよそしい、ひょっとして喧嘩している?

 でも、次女の言った通りとげの付いた蔦がはびこっているし、墓石の縁に苔がついているし、これを綺麗にしなければと持参の小さいのこぎりや、お寺のたわしやぞうきんを使って小一時間一生懸命掃除をしたのだけれど、なんせもう40年以上たつものだからなかなか取れないのです。お釈迦様の弟子で周梨槃特しゅりはんどくという物覚えが悪い方がいて、自分の名前さえ忘れてしまうので名前を背中に荷い、名前を聞かれると背中を指して教えるほどで、そんな自分が嫌で泣いていると、お釈迦様は「悲しまなくてもよい、お前は自分の愚かさをよく知っている。世の中には自身の愚かさを自覚しないでいる者が多い。愚かさを知ることはとても大切なことだ」と優しく慰められて、一本の箒と「塵を払い、垢を除かん」の言葉をお授けになったという話をふと思い出し、塵を払わん、垢を除かんと唱えながら墓石をこすっていたら、急に雨が降ってきて、仕方ないので半分汚れを残したまま、お線香を上げて帰ってきました。六時過ぎに疲れて帰ってきたものの、また次女の旦那さんはお墓参りしてくれるだろうし、半分残った汚れを取り除かないと彼に申し訳ないと思いながら次女にラインすると、「お疲れ様。また行くね」と返事がかえってきました。

 施設にずっと入っていた母のところにも来てくれた次女の旦那さんは、帰りがけスタッフの方々にお礼の温かい言葉を掛けてくれたそうで、母が後で感激して教えてくれました。お正月にうちに来ると必ず仏壇に手を合わせてくれるし、仏教の事もよく知っていて、本当にいい方ですが、神奈川の山の上の父母のお墓を私が守って綺麗にしていかないと、次女の旦那さんに申し訳ないと思うのです。毎日頑張って掃除をしていた周梨槃特はお釈迦様に「毎日頑張っているね。でも、一か所だけまだ汚れているところがあるよ」といわれ、しばらくして汚れていたのは自分の心だったことに気づきました。

 次女の旦那さんは、血もつながっていないのに母の事を思ってくれ、お墓参りまでしてくれています。そのお墓の汚れが落ちなければ私の心の汚れも落ちない、心とは綺麗にしても綺麗にしても、又汚れてくるもので、ここに、掃除をする理由があるということを、教えられている気がします。お釈迦様にはどれだけ隅から隅まできれいにしてもだめだと言われる。それでもあきらめずに黙々と掃除を続ける。掃除をするのは、汚れることを前提にしているのだから、心の垢を流し、心の塵を除くことをし続けること。仏道を歩むということは、決して多くを覚えることではなく、なすべきことを徹底することが大事なのです。一心不乱に、専念して掃除をすることで、集中力が高まり、心が整い、創意工夫が生まれ、意味が出てくるのだということ。

 お正月に会うしか接点がなかった次女の旦那さんだけれど、この山の上に何度も来てくれる次女夫婦のために、お墓を綺麗にし続けることは父と母の何よりの供養になる、心から拝んでくれる人たちのために、私は掃除をしていきます。来た時の父と母の暗い雰囲気は、掃除をして草むしりをすることを知らない弟一家への悲しみなのかもしれない、九月の父の命日に、今度はデッキブラシを持って、この坂を登ります。お墓も心もいつも掃除をしなければならない、次女の旦那さんが教えてくれたことに、心から感謝しています。