Change

 Change      昨日から色々なものが変わり始めました。まず検眼表の一番上しか見えなかった私の左目の濁ったレンズがチェンジされ、何もかもよく見えるようになって、外の植え込みの草花がこんなに綺麗だったのかと驚いたり、夫の箸を違って出さなくなり、あらゆる汚れが良く見えるようになり、手あたり次第掃除をしています。そして、テレビの画面もよく見えるようになり、嬉しくなってニュース番組をつけたら、逮捕されてマスクをして車で連行されていく優しそうなお顔が映り、それはなんと昔の夫の仕事関係の方でした。

 

 白内障の手術を受ける時、四時間ばかり小さな病室でベッドに寝て待っていて、今入院しているママ友の事を考えていました。どこにも救いが無くなってしまった時、どうやったら自分の心は再生できるのか。何の言葉もかけられず、慰めも励ましもできない、でも人間の魂は何度でも転生を繰り返してきたと言います。度重なる経験の蓄積のなかで温められてきた何かの才能が自分の中に在る。それを見つけるには魂の快・不快に意識を向けることが大事で、古い価値にしがみついて居たり何かしらの労働に依存していると遅かれ早かれアイデンティティ・クライシスを迎えてしまうというのです。好きなことを仕事にして生きて行く。娘は大変だけれどまさにその通りの道を歩んでいる。 

 サリン事件が起きた時、首謀者の医師や優秀な科学者が何らかのアイデンティティ・クライシスに襲われ、システム社会に迎合することができず、オウム真理教に救いを求めてしまったことは、私たちにとって大きな分岐点だったと、村上春樹は”アンダーグラウンド”という本の中で言っています。私もそうだったし、今の若い親たちもそうかもしれないけれど、勉強していい成績を取っていい学校へ入って良い教育を受けてという連鎖の中に入ることが子育ての一番の目標で、それ抜きには幸せは来ないとまで考えていたけれど、娘はそれに抵抗して、反発し、そして今何とか我が道を歩んでいます。コロナウィルスやウクライナ紛争、異常気象、経済の不安定など様々な問題が噴出する中で、教育連鎖の中に入ることがこの混乱の原因でもあったのではないか、Z世代と呼ばれる若い世代は、知識や学びはひとと争うためにあるのではなく、自分を高めなすべきことを見つけ、人のために、国家のために、地球環境のために役立つことをしていくことだと気づいて、自分達の力で努力している。それに引き替えたえまない争いを繰り返している権力者たちは、自分の魂のありかを探す遺伝子を持っていないのかもしれません。

 

 宮崎駿監督の”もののけ姫”というアニメ映画の中で、主人公の青年アシタカのセリフ「曇りなきまなこで見定め、決める」という言葉が頭の中に浮かんでいます。物事の本質を「見定める」ためにどのような精神性が必要なのか。物事の本質を「見定める」ことが、最善の行動を「決める」上でとても大事であり、そして精神の「強さ」は「自分を守る」ことを目指させないが故に自らを「冷静」にし、如何なる答えでも受け入れることを可能にし、そういう心が「先入観」を生まず「曇りなき眼」を作り出す。「問題解決」を行なうためには、根本的な「問題」とは何なのかを見定める必要があり、そういった姿勢が、「全体」を見ようとする「冷静」な視野を生み出します。

 アシタカの出身の村は、このような構造を教えられる程の「成熟」があったと考えられ、この村は「曇りなき眼」の価値や意味を知っており、その価値や意味をアシタカはその村から学んだのです。人間が本当の意味で「成熟」を実現し、「成熟」した大人達の中で子供が学び成長するなら、アシタカのように世の中の様々な「問題」を「解決」できる人間が誕生しやすくなる。

 宮崎駿という一人の「成熟」した人間の力によって、『もののけ姫』は我々に「曇りなき眼」の本質と価値を教えてくれます。

 

 昔の夫の仕事関係の事件は、「とんがり鴉」の一族がとんがり焼きを巡って突き合いをし、目をつぶし合って生じたものでした。マクベスのセリフそのままの世界です。「悪いことをすると自分にはね返ってくる。そして眠れなくなる。」「一たび悪事に手を着けたら、最後の仕上げも悪の手にゆだねることだ。」目には目を。確かにその通りのことを私世代の人達が行っていたのでした。感受性や想像力を失った社会 の中で精神を保つには、想像力の中から始まる精神のゆがみから自分を取り戻し、 呪いを打破できるタフな人間になることでしか生き延びていけない。憑りついた悪の退治をするには、人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶことを知らなければならない。運命に選ばれた権力者たちの滅びに向かう瞬間を私たちは見届けるために、ただひたすらタフにならなければならなかったのでした。何もしないで寒い池の中でじっと何も考えず耐えるだけの胆力を持ったカモだけが生き残った。漫画「ブッダ」の一シーンを思い出します。 

 

 「カタルシス。もうひとつの人生を生きて見ることにしよう。」「違う自分になるんだ。風のようになるんだ」カタルシスとは精神の浄化を意味して、不安や怒りなどの心の汚れや罪の意識などを取り除いて、精神を正しい状態に戻すことだそうです。マクベスのような激しい文学を読み、追体験することで心が解放され、こういうことを繰り返していると人間の幅が広がり、ものに動じなくなり、何かを思うようになる。人間の幅や深さは人それぞれ違うけれど、それぞれが影響し合う事で何かのエネルギーが生まれる。自分の力で自分の精神を浄化して、自分の内側にこそ世界を変えるパワーがあることに気づき、どんなに頑張っても報われないことからも学び、もがき苦しむ生き様もさらけ出し、今度は風のように違う人生を歩もうと努力していくことを、1600年代にシェークスピアは示していたのです。

 この世の本質はすべてエネルギーで、目に見えない波動が時間をかけて結晶化したものが、いま目に映っていて、自分が放った波動がまるで鏡写しのように世界からはね返っています。自分の魂にとって最も純粋な在り方とは、心の情熱に真っ直ぐに従うことであり、そこで生まれた行動力に愛という方向性を持たせること、個人の小さな情熱が社会を大きな変容に導く時だから、自分の道を堂々とつきすすむ時代なのです。内なる情熱に火を点けて、愛に満ちた未来に向かうこと。自分の選択を信じて突き進むこと。

 ママ友の事を思います。何にもできないけれど、ただ、ママ友の事を思っています。

 何かのきっかけで、心がchangeして、また会うことができたらいいなと思い続けて行きます。