大渦巻き

 学校の教科書に載っていたのか、何かの雑誌で読んだのか、もう五十年以上も前のことでよく覚えていないのですが、エドガー・アラン・ポーの短編集にひどく魅かれた時期があり、小説の中の空気感をいまだ覚えています。アッシャー家の崩壊、黒猫など、どれもおどろおどろしい感じですが、その中で「大渦巻きに呑まれて」という作品には強烈な印象を受け、何かにつけて思い出すことがあったけれど、昨日からまたそれが頭の中で渦巻いています。

 昨日は満月で夜はよく晴れて煌々と光っていたのに、夜半過ぎから妙な風が吹き、月がおぼろに見え始めました。ウクライナ情勢もまた熾烈になり、やったらやり返せというごく単純な論理で、沢山の人達が爆撃されています。エドガー・アラン・ポーの小説を、図書館に予約してからふと思い出したのが、夫が小さい頃買ってもらって読んでいたという古い世界文学全集の中に、「黒猫」と「黄金虫」という題名の彼の作品が入っている本があったことで、早速取り出して読んで見ました。黒猫は本当に陰惨な復讐劇です。悪いことをしたら、必ずはね返ってくる、復讐は収まらない。

 最近日本酒をポットでお燗して吞んでいる夫は、大好きなクサヤと落花生をつまみながら晩酌していい気持ちで酔っ払って、「仕事もしないで、こんな幸せでいいのかな」と繰り返して言っていました。本当は家業の仕事を辞めたら教職資格を持っているからそちら方面で働く予定でしたが、悪しき身内の奸計で職を奪われ、のんびりじっと家にいることになったのです。私はそのころからエアビーの仕事を始め、夫に助けてもらいながら外国人をもてなすことができた。不思議なものだなと思います。

 仕事関係の不祥事が明るみに出て、悪が悪を暴き出している様子をテレビやネットで見ながら、夫は「みっともない・・」とつぶやいています。海軍にいた義父のモットーは「何事にもスマートであれ」だったと思い出し、奸計をはかられてもみっともない様をしなかったのは、そこら辺の教えからきたのでしょうか。

 じっと黙って静かにしているのが不気味だったらしく、悪の輩は新たな罠を仕掛けてきたけれど、その有様を見ていた私はただ哀れにしか思えず、この人間は家に帰ればエドガー・アラン・ポーの小説のように怨念や恨みが壁の中に塗りこめられている中で毎日暮らしているのだなあと思っていました。世界中の混乱を起こす首謀者たちの暮らす家も同じようなのかもしれず、結局心の中の怨念に生涯苦しめられているのです。

 今私が図書館に予約している「大渦巻き」という本は、記憶が正しければ大渦巻きに巻き込まれて命を落としそうになった漁師が、海の上でふと見上げた雲間から見える高い月のこの世のものとは思えない永遠の美しさ、荘厳さに心を打たれるというものなのですが、絶体絶命の死の瀬戸際にいる時でも、圧倒的な美しさとか自分の心の奥底にある何かを燃やしてくれるような憧憬のようなものは、心を、自分の魂を再生させ鼓舞してくれる、その感覚をこの小説で私は得ることができた。将棋倒しのようにうまくいかないことが立て続けに起こっても、その中で一歩も引かず自分が今いる世界が全てではない、自分が本当に追及すべき道を自ら定め、新たな世界で新たな努力を続けて行けばよかったのです。終わりが始まりであると確信させられることは、なんて清々しいのでしょう。悪しき世界に居続ければ、大渦巻きに遭遇した時簡単に飲みこまれてしまう、悪いことをすることを悪いと思わなくなったら、本当に美しいものは見えなくなるのでした。

 終わりが近づいてくる足音が聞こえてきます。終わりが始まりであると確信できることが嬉しい、そして新しい世界で新たな努力を重ね、毎日を大事に生きて行きましょう。二回目の白内障の手術が終わりました。前回よりも痛かったけれど、これでまた見えてくるものが違ってきます。美しいものがもっと美しく見えてくるような日々を過ごしていこうと思います。

 

図書館から予約した本が届いたとメールが入り、取りに行ってきました。文庫本を急いで読んでびっくりしたのは、「大渦巻きに落下して」という小説がとても長いもので、私には初見だったことです。私が子供の頃読んだものはダイジェスト版だった…正直原作を読んで、あの時のように感動できなかったのはどうしてなのだろう。ダイジェスト文を書いた方の気持ちも、とても強いものだったかもしれません。

 50年記憶の底に持ち続けた私の気持ちも、なぜか強かったのでした。そしていま、そのことが何かの救いになっています。