寒くなりました

 十月は神無月ともいい、神さまは出雲に集まっているから、こちらはお留守なんだと思いながら、急に来る予定のゲストの支度をしています。今日はタイの母娘がゲストで来ますが、このパターンは割とやりやすくて、とにかくお母様を綺麗に仕立てるのがコツです。難しい名前は覚えないで「ママ」で通せるのもありがたく、私より2歳若いけれどかなり小柄なママのために、上品で高品質の訪問着を並べて待っていると、緊急のズーム会議が入ったので一時間遅れると銀行員の娘さんからメールが来ました。浅草に泊まっているからここまで15分で来られるけれど、先だってのインドのゲストのように20分で来られるところ1時間半かかったこともあるので、油断せず夫と二時から外で待っていると、いま駅から歩いてきているとメールが来たのになかなか現れません。

 前日に送るメッセージに細かく道順を記しているのだけれど、このところ上手くうちまで来られないゲストがいるので変えなくてはならないかなと考えていると、遠くに身長差10㎝ある女性の二人連れが歩いて居るのが見えて、夫と二人で手を振って、無事玄関まで誘導しました。タイから来たママと、シンガポールで働いている娘さんをお寺が閉まる前に柴又まで連れて行くため、急いで着物を選んでもらったら、ママはくすんだピンクに貝殻細工の刺繍がある訪問着が気に入り、娘さんは踊り用の白地に赤い模様の小紋を選択しました。夫は今日は英会話教室があるので出て行き、私一人頑張って二人着せ、髪をアップにして髪飾りを付け、寒いので羽織も着せて三時半に柴又へ出かけましたが、綺麗にお化粧したママは、着物がとても気に入ってニコニコしています。

 いま浅草は、訪日外国人が着物を着てたくさん歩いて居ると知り合いの方が教えてくれ、まして宿泊しているところが浅草だから、着物だけ着るならいくらでもお店はあるのですが、若い子は何を着ても綺麗だけれど、優れた着物は年を重ねた肌や身体を上品に包んでくれ、グレードアップさせてくれることを身に染みて知っている私は、娘さんにエスコートされているママがだんだん着物に馴染んで輝いてくるのを嬉しく見ていました。英語が話せないから初めは無口だったママは、お寺や参道でたくさん写真を撮り、お団子や漬物を買って帰るころには私の腕を取って笑ったり、二人で写真を撮ったり、すっかりなついてくれました。

 母娘のゲストはこれまで10組くらい来ているけれど、お母さんを楽しませようと娘さんは頑張っている姿がほほえましく、ずいぶん前に異国で苦労して自分を育ててくれたお母さんを連れてきた娘さんがいて、英語が話せず黙って着物を着せられお寺を散策して帰ってきた小さなお母さんは、最後のおみやげタイムで好きな着物をプレゼントすると言ったら、お国で留守番している娘さんのために一生懸命探して赤いウールの着物を選び、それを持って座って着物を畳んでいた私のところに来て急に抱きついてきたことを今もはっきり覚えているのです。自分がどんな着物を着せられても無表情だったお母さんは、子供のために着物をゲットしたということが何よりも嬉しかった、結局私たちはひとのために生きている、それが生き甲斐なのでしょう。人が喜ぶこと、人のためになることを必死で考えていると、幸せが何倍にもなって返ってきます。

 参道で着物姿の日本の女性が何人かで歩いて居らっしゃるのを見かけました。着付けを習い始めたころ、「着物を着て歩こう会」とか「着物を着てランチを食べる会」とか参加したことがあり、十人以上で着物を着て集合するとかなり目立ったのですが、皆さんの着ている着物が気になったり着方をチェックしたり、そんな事に追われて顔が笑っていない、心から喜んでいないで疲れて帰ってきたことがありました。一期一会で初めて着物を着る外国人の方は恥ずかしさと嬉しさで興奮しながら、日本文化に対する敬意や、絹の着物の感触に浸り、そして私のうちの着物は特に持ち主の愛情や過去の物語を持っているから、それがもっともっと着る人の気持ちを高揚させるのでしょう。

 柴又から戻ってから、夫が5時前に帰って来たので、何回か仕事の電話をしてい慌ただしかった娘さんと株の話をしたり、これから行く六本木の焼き肉屋さんに予約確認の電話を頼まれてしたり、刀を持って写真を撮ったり、お茶の飲み方をレクチャーしたリ、短い時間でしっかり存在価値をアピールしてくれ、プレゼントの和装バッグと浴衣を持ってタイの母娘は忙しく帰って行きました。ママは本当に嬉しそうだったけれど、娘さんはどうだったかしら、仕事のことで頭はいっぱいなのに、隠し撮りが好きなアバウトな私に写真の構図を何回も指示したりして、いろいろ不満もあったろうなと、片付けをしながらぼんやり考えていて、母親が嬉しくて娘さんはそうでもないという時も結構あったことを思い出していたら、七時過ぎにメールが来てとても楽しくてアメイジングな体験ができたとあり、私とのスリーショットの写真も三枚添付されていました。

 来るときに私たちが家の前で待っていて手を振っていたことがとても嬉しかったとレビューにあって、そういえばずっと前にニュージーランドから来たカップルもそんなことを感想に書いてくれたことがあった、そして京都で着物体験をして広大な庭園で写真を撮ってもらった50代のママが、うちで着物を着てティーセレモニーをして柴又へ行こうと玄関を出た時に「ああ楽しかった」と言ってくれたことに驚いたのだけれど、着物を着るということに喜びと幸せを感じるためには、着る人がいて、そこに文化や本来の着物の品質、価値、そしてその着物を持っていた人の着物に対する愛情を味わえる土台があるか、着せる方は人を大事にしているか、毎日を誠実に生きているかという全てが加味されて問われる気がしています。

 私たち三人で柴又を歩いて居て、三人ともとても幸せだった、うちにある着物をきれいに着て喜んでいるゲスト達を見て幸せな気持ちになることが、私の原点であり、私の体験の本質であることをあらためて感じた一日でした。コロナ以後ボチボチ仕事をしている私に、夫は「お前が変わっているのはよくわかっているけれど、それにしてもこういうことをよくやるよな」としみじみ言ってきて、いまさら何だとおかしくなりながら、夜に足がつって痛くて体力が衰えたことを感じるのですが、晩年になって好きなものに対する自分の姿勢の在り方や技術、精度を上げることで喜ぶ人がいて、その方々がもっと幸せを感じられるような場面を提供して、それでみんなが幸せに思える瞬間を増やす努力をしていけることがありがたい、今までの自分の過ちや失敗も認めてそして忘れて、透明になって着物というツールを大事にしながら決して欲は持たず、風を感じて進んで行けばいいのでしょう。

 今日は手術後最後の診察です。顔も洗えず三週間が過ぎ、マスクの有難さを感じながら素顔で過ごしてきました。夫はもう呆れて何も言わないけれど、よく私の姿に耐えてきたなと思います。さてこれから、新しい私はどんな色をもった姿になるのでしょうか?