七五三の打ち合わせ

 私の目が治ったので、十一月に七五三をやる方が次々打ち合わせに見えます。先だっては女の子で、自分の好みの着物を選び、髪飾りや小物も選ぶのが早く、楽しみにしているお母さんとおばあちゃまといそいそ帰って行きました。昨日は五才になる男の子がお父さんとおばあちゃまと来たのですが、来るや否や駆け回り始め、コロナ前に来た中国の年配のパパとロシアの綺麗なママが連れてきた三歳のジェシカ以来の手に負えない感覚を、久しぶりに味わいました。着物を着るどころの話ではない、片時もじっとしていないで私の手をすり抜けていく子供らには、七五三の意味など全く当てはまらないのです。

 とにかくいうことを聞かなかったジェシカを柴又のお寺に連れて行った時、足が冷たくないかと心配するパパをしり目に少し静かになったジェシカは静かな庭園をじっと見つめていて、紺のフードを被った彼女の後ろ姿を私は写真に撮ったのだけれど、この風景はこの子の何処かに残るだろうと感じていました。昨日の男の子も、あまりにじっとしていないので、刀を持たせて二階の鎧の前で遊ばせたり、付き添いのパパに紬の着物と袴を着せて戦ってもらったり、この子の記憶に着物の概念をインプットしながら、本番では屋上の人工芝に何か小道具を置いて遊べるような空間にして夢中になってもらったらいいのかな、鬼滅の刃やポケモンの話をしていたから、羽織袴でなくても、煉獄さんのように着物をマントのようにしてもいいかしら、こうなると強いのは、娘のスタイリングセンスで、何でもありの中に着物の本質を掴んだものを瞬間でも創り出せばいいのかもしれない。

 この男の子のママは去年病気で亡くなり、おばあちゃまから遺品の振袖や小物をいただいていて、それらをずっと飾っている私はママの気配を感じることも多かったのですが、着物なんか嫌だと言って片時もじっとしていない坊やはいくら小さくても自分の運命は受け入れなくてはならない、今までたくさん来たゲストの中で、実母が小さい時に亡くなった話をした若い男性もいた、だけれど英語で話すからたくさんは話せないし勝手に悟るしかないのだけれど、こういう時は相手を見るのではなく同じ方向を見ることが一番救いになる気が私はしています。

 小さくても見えるものがある、苦しくても見なければならないものがある、それは結局誰に助けてもらうことでもなく、自分で考え感じ、進んで行かなければならないことなのです。汗をかきながら着物や袴を着てくれ、子供の相手をしている優しそうなパパと、一生懸命お孫さんを育てているおばあちゃまは、きっと普通に七五三を祝う家族が羨ましくて、悲しくなることもあるのでしょう、でも私も息子の七五三を見ていない、ああそうだったんだなあ、一緒に撮った写真すらなかったのでした。退院したばかりでうちで一人で留守番していた時の記憶がないのだけれど、同居して束縛が激しく心がボロボロになっていた時だから、三週間の手術入院は、自分でいられる回復のチャンスで、それからの通院は家から出て自由になれるひと時でした。

 他人と比較して自分の状況を嘆いたり辛くなる気持ちはいまだあるのだけれど、そういう次元の話ではなくて、世の中は、世界は恐ろしく展開しています。欲のない心で、真っ直ぐやるべきことをやっていく、それは年取った私も五歳のこの男の子も同じだと思う。私の準備ができ次第連絡を下さいとおばあちゃまが帰られたあと、この前来た五十代のゲストがまた仕事で日本に来ているので、彼女のお友達と私たちと四人で、十一月にランチをしようとメールが来ました。エンジニアと聞いていたけれどどんなところで仕事をしているのか問い合わせたら、「政府関係の・・・」と返事が来て夫は「物凄く優秀な人たちだ」と言っているので、私は一生懸命そのことについて調べ、関係する単語を頭の中にストックしています。 

 いやはや、のんびりしていられません。どんな十一月になるのでしょうか。見当がつかなくなってきました。