感謝すること

 この前シンガポールから来たドミニクが、着物を着て柴又へ行く電車に乗った時、しきりに神社と寺の違いを聞いていて、説明はしたものの後でもらったレビューには、「私たちは神社へ行った」と書かれていて、どうも最後まで違いが判らなかったようでした。神道とは日本に古くからある民俗信仰で、身の回りにあるあらゆるものに神様が宿っていると信じられており、数え切れないほど多くの神さまがいらっしゃることから「八百万の(やおよろずの・非常にたくさん)神々」と表現されることもあります。神社にはご神体が祀られていて、石ころから始まって海や山など自然界に在るもの、猫やキツネや亀などの動物が姿を変えたものなど多種多様で、人間が亡くなった後に神として祀られているものもあります。神社に祀られているすべての物に霊的な力があり、ご加護があると信じられており、神社にお参りするのはこれまでご加護によって無事に生きてこられたことや、おまいりに来ることができたことを神様に感謝する為です。神道とは一神教ではなく、多神教で特定の神が唯一の存在であると考え、信仰の対象となるキリスト教やイスラム教ではなく多数の神々が存在すると考え、信仰の対象がある宗教なのです。

 お寺は仏教の宗教施設で、仏教の教えを信じ「悟り」を目指す人が修行をする場所であり、一般の人に仏教の教えを説く場所でもあり、ご先祖様を供養する場所でもあります。仏教とはインドの釈迦を開祖とする宗教で、キリスト教、イスラム教と並んで世界の三大宗教の一つとされていますが、仏教は552年の飛鳥時代に日本に伝来すると長い年月をかけて様々な宗派に別れ、お寺は初めは仏教の修行者の共同生活の場でしたがその後、仏教の教えを伝える場所として整えられてきました。

 

 実母が元気なころ、神奈川の山の上にあるお墓参りに付き添いで行ったことがありますが、お墓を綺麗にした後、母は大きな声で願い事をずっと唱えはじめ、自分の身体の事から始まりありとあらゆる願望を滔々と語り、そこにはお経も仏教も何も出てこないことに私はかなり違和感を持ちました。この前宗教のあるサイトを見ていたら、神さまには願い事をするのではなく、ただ感謝の念を唱えればいいとあって、すとんと腑に落ちた気がしたのです。

 七五三の着付けを頼まれた五歳の坊やにどうやって着物を着せたらいいか、神社も喪中でお詣りに行けないし、その子に着物を着る意味を感じさせることは無理だと思っていたけれど、着物をきちんと着て羽織袴で正装して、神社へ行って神さまの前でみんなに感謝の気持ちを伝えること、悲しいことも辛いこともいっぱいその小さな体に感じているから、着物を着てと言ってもそんな事嫌だと思うでしょう。だけれど、そんな不条理を越した感情をいつか持てる日が来たら、袖をとおせるかもしれない。

 ことばの力。日々の感謝を神様に伝えに行く。神様ありがとうございますと伝えに行く。祈願、祈りとはそもそも「意のままに沿う」「あなたの仰せに従います」「あなたが望むように生きて行きます」「ありがとうございます」という意味で、そして「願い」とは、ねぎらいが語源で、よくしてくださってありがとうございますと感謝することでした。

 つまり祈願とは、「神様、あなたの仰せに従います。あなたが望むように生きて行きます。今までよくしてくださってありがとうございます」と感謝を伝える言葉なのです。神様を味方につけるには、常に感謝であふれた毎日を送ること、そして「ありがとう」にあふれた生活を送ることです。神や仏に感謝し、あとは「お任せする」ただお任せしてありがとうを言いながら感謝していけば、味方をしてくれるようになる。ただありがとうを言えば言うほど、必ずすべての物から共感や共鳴を得られます。年を取った私はやっと今いろいろなことがわかってきた、それを五歳の坊やに解れという方が無理です。でも私がわかったということを伝えていけばいい、どんなに時間がかかっても、何かの方法で、それこそ新しい言葉で新しい物語を紡いでいけばいいのかもしれない。

 

 昨日の明け方ブラジルに住む若い女の子三人から着物体験の予約が入り、あんな遠くからたくさんの時間をかけて日本までやって来るんだなあと感慨にふけりながら、12月にやってくる頃にはまた私の説明も変わってくるのかもしれません。文化とか宗教とは、本当に人間の心を救うために存在していることを、あらためて感じています。