ハロウィンの日の夢

 明け方リアルな夢を見ました。ずっと子供を遊ばせている夢で、今度七五三を迎える男の子に、なんとか着物を着てもらおうと思っている気持ちが、夢にまで出てきたのかもしれません。黒澤明監督の作品の中に「夢」というのがあって、漱石の「夢十夜」という小説の出だしを借り、”こんな夢を見た”というプロローグから始まり、八話をオムニバス形式でつないでいく映画なのですが、その色彩豊かな映像を堪能しながらも、これはみんな監督の夢の中の話なのでした。映画というのは記憶である、人生すべての記憶が自分に映画を作らせてくれるんだ、それは神の御意思だという晩年の言葉は、印象的です。

 夜早く寝るから三時ごろ目が覚め、それからしばらくごとごと動いてからまた寝た時に見る夢はかなり強烈なものが多くて、昔は学校に遅れると焦って駆けていた夢で、最近はお茶のお稽古で叱られていて、目が覚めてほっとして外を見るともうすっかり明るいのです。勉強は好きだったけれど学校は居心地が悪かったし、お茶のお稽古は好きだけれど理不尽に怒られてばかりいると、抹茶を飲むことすら苦痛でした。昨日はなんとなく色っぽい夢を見て、ああ年を取ったなあと感じながら起きて新聞を見たら、韓国でハロウィンの為に集まった若者たちが狭い路地に密集して圧迫され、160人近くが亡くなったというニュースが大きく報じられていました。

 十年位前に八丁堀にあるスペインバルに良く行っていた夫は、そこで働いていたマリアというカナリア諸島出身のスペイン人のおばさまと仲良くなり、ハロウィンの話になって二人でキリスト教でもない日本人がハロウィンと騒ぐのはおかしいという結論に達したそうです。だからコロナ禍の最中では勿論自粛されていたハロウィンがまた復活したことを苦々しく思っていたところに、この事件が起きてしまいました。

 

 ハロウィンは2000年以上も前の古代ヨーロッパの先住民とされるケルト人のお祭りが起源とされて居て、11月1日を新年の始まりとし大晦日に当たる10月31日には秋の収穫を祝うとともに、悪霊を追い払うお祭りをする風習がありました。一年の終わりとなるこの日は、あの世から先祖の霊が戻ってくる日でもあり、そこに紛れ込んで悪霊もやって来ると信じられていたため、人々は仮装したり火を焚いたりすることで、悪霊から身を守ろうとしたのです。死者の魂は幽霊や妖精、悪魔などの姿をしており、家に戻った時に機嫌を損ねないように食べ物や飲み物を用意しておくのが伝統で、また子供が悪魔やお化けなどの怖い仮装をすることで、死者の魂に気づかれないようにしていたのです。

 キリスト教にとっては異教徒の祭りであることから、ハロウィンに対してキリスト教教会では容認から否定まで様々な見解がありますが、この伝統行事がカトリック教会の「諸聖人の日」と融合し、ハロウィンが生まれたそうです。19世紀にはアイルランドやスコットランドから大量の移民がアメリカに渡り、ハロウィン文化がアメリカに広まったのが現代のハロウィンの起源です。現代は宗教的な意味合いは薄れ、大衆文化として定着していますが、顔を彫ったカボチャも本当はカブだったそうで、悪事ばかり働いていたジャックという男が生前自分の魂を狙った悪魔と「死んでも地獄に落とさない」という契約を結んだけれど、死後生前の行いから天国へ行くことができず、悪魔との契約のせいで地獄に行くこともできない。行き場を失った男はくりぬいたカブの中に火を灯し、今も彷徨い続けているというのです。

 いろいろな国の行事には、宗教には、民族の謂れがあり、歴史があり、様々な苦しみや葛藤の末にたどり着いた心の拠り所としてのスピリットがあります。自分達が今何をやっているのかわからず、ゾンビなどの怖ろしい恰好をして、皆が群れているから行こうと狭い路地に入り込み動けなくなったら、悪霊にとりつかれてしまう、なぜそんなことをしてしまうのか、私たちは淘汰されようとしている。私も夫もコロナ後は年齢を強く感じるようになってきています。今朝のテレビを見ていると、地中海の水温が下がらず、フランスは11月だというのに半袖で過ごせるほどで、インドでは吊り橋が落ちてたくさんの人が亡くなったし、台風被害、大雨被害、などなど、これまでこんなことはなかったという被害があちこちで起きているのです。

 

 夫と神奈川の柔道道場の子供たちが大きな柔道の大会にでるというテレビを見ていて、五人で戦っていた時は大将だった大きな男の子はみんなの事を思ったり団体戦のプレッシャーに押しつぶされて自分の柔道ができなかったのが、もう負け試合とわかっての最後の戦いの時、もう何も考えず自分の柔道の事だけを考え、顔を上げて相手を掴まえ、技を仕掛け続けている闘志あふれる姿で見事勝ち、もうしがらみも思いも何もなくて自分が戦うだけだという切羽詰まった時には、たとえ子供でも一つ先の段階を越した境地になるんだということがあからさまに見えた瞬間でした。

 みんなと協力し合い、助け合って何かを成し遂げることは素晴らしい体験だし、みんな仲良く元気よくという学校の教えを思い出すけれど、断崖絶壁の危機に立たされたり、相手を倒さなければ自分がやられるという命がけの時、そしてこちらの道をみんなが行くからと言って選んだら、陥没する危険があるということを嗅ぎつける嗅覚は、日々の生き方や考え方、ストイックな道をあえて選ぶ本能を鍛えているかどうかにかかってくるのです。いつも楽しく温かい家庭で幸せににこやかにくらしていて、今日はハロウィンだからと仮装して、手を取り合いながらみんなが進んで行く狭い路地に入る、誰もそこが危ないなんて言っていなかった、みんなが行くから私たちも行こう、悪霊から隠れるための仮装は、ぎゅうぎゅう詰めになって圧死するという考えられないような最後を迎える衣装になったのでした。自分で考えなければならない、自分の嗅覚を研ぎ澄ませなければならない、辛くて苦しいことなんか選ぶのはまっぴらだけれど、悔しくてみじめで悲しい思いやそれに耐える自分を俯瞰して見詰めることができていたならば、狭い路地に入らず、入る皆の事も止め、惨事をシュミレーションする能力を発揮できるのです。

 これからこういう出来事はたくさん起こり続けるでしょう。大渦巻きに呑まれ、大きな漏斗のような渦の壁にへばりつきながらだんだん中心の核に近づいていく、ぐるぐる旋回しながら周りのものが一つ、また一つと落下して飲み込まれていくのを見ている、誰も助けるものはない、そんな夢を見たことはないけれど、今世界中で起きていることは夢ではなくリアルな出来事なのに、それが夢だったらいいなと願っても覚めることはなく奈落の底にただ落ちていくだけ。それが運命だとしても、最後の時だとしても、その瞬間に空を仰ぎ見て雲の間から見える月の輝きに永遠を感じ取り、その中に魂が吸い込まれていく感覚を味わえれば、たとえ次の瞬間落下して渦の中心に飲みこまれたとしても、肉体はなくなっても、自分は次元の違う世界に飛翔していけるのでしょう。

 今考えなければならない事、やらなければならないことは、どこの学校に入っても、どんな国へ勉強に行っても、まだ誰も教えてくれない課目なのです。物質的な時代の終焉と魂の時代の劇的な蘇り。本質的な豊かさとは何か。今は人類にとっての奇跡的な転換期で、幸せそうな仮面をまといながらも実は心の乾きを助長させるデビル的なエネルギーが満ちている、偽りの人生を生きて淘汰される道を進まず、天と地とそして地下、これらの世界が複雑に絡まり合う時だからこそ、柔らかい感性で世界と向き合っていき、あらゆる偏見や固定観念を手放して柔和な心で現実と向き合う。いちいち動揺しないメンタルの強さを持ち、柔軟な心で生きるからこそ、より強い力を取り込むこともできるようになる。柔らかい心は結果的にパワフルな精神を形作っていくのです。

 「人を説得するだけのオーラというものは、その子がどんな事をしてきたか、どんな事で自信をつけてきたか、そして心の感動みたいなものをどれだけ経験してきたか、たくさん綺麗なものに触れ感動してきたか・・・見せかけのものじゃなくて本物に触れさせることで本物をやっている人は皆本気だから、それを見た時に凄いと思い感動する。これから生きていく上に必要なものは「オーラ」「スピリット」だということ。物事をそのまま受け入れるというのは、ずいぶん体力のいることだけれど、自分のやってきたことの意味を問い直し、光もそして影もできる限り正直に正確に認めた上で座標軸を作ることが何より必要です。やはり努力を続けるためには善き見本というか崇拝し、力をもらえる存在が自分の中に在ることが有難いです。魂が脱皮するような衝撃的な感覚がやって来る。自分の目指すものをストイックに追い続けるときが今なのでしょう。まがい物でなく、人に作り上げられた力でもなく、自分で作り上げた本物でないと人を感動させ、力づけ、救うことはできない。

  本物の凄さ、良さ、素晴らしさ、感動、そしてオーラは、私たちの心を救うものです。余分な力は抜け、穏やかな心で、全てを慈しみたいと思う感謝の気持ちしかありません。たくさんのオーラを仰ぎ見るために、努力して、準備して、待っていましょう。自分の記憶を積み重ねたものが、夢になるのなら、どんな夢でも受け入れましょう。