ベトナムから再び

 昨日はお天気も良く穏やかな日曜日で、私は三人のベトナムのゲストを迎えるため、小柄なサイズの水色の振袖と、初期の頃アジア系の女性に好まれていたバラの花模様のピンクと黒の中振袖を出して、準備をしていました。五十歳のママは訪問着でいいけれど、全部三人分を揃えるのは結構大変で、そういえば四人の着付けをしたこともあったなと考えていたら、20分遅れでやって来た彼女たちの一人は何とリピーターでした。忘れもしません、姉妹で三年前に来て、ピンクの訪問着と紺の結城紬を着こなし、山本亭でたくさん写真を撮った後、おみやげの羽織は高級な紬を選んでちょっとためらった私に、これから行く京都の竹林の前でこれを着て写真を撮りたいと懇願され、大事にしてねと渡したお姉ちゃんと、お母さんと、友達の三人がコロナ後また来てくれたのです。

 みんな選択が早くて、ママは紺の総模様の小紋、お姉ちゃんは紺の結納訪問着、可愛いお友達は洋服を脱ぐのが嫌で、着たまま着付け、ショートヘアに大胆なアクセサリーを付けて素敵な着物姿になりました。ベトナムの方の名前は発音が難しく、お母さんはいつものように「ママ」と呼んで、ジーパンを脱いでもらおうと裾を少しまくったら、足の皮膚がひきつれているような感じがして、これは脱がせられないけれど細いから大丈夫と判断、そのまま着物を着せたのだけれど、最近来たタイやハワイのママに比べて顔が笑っていないでちょっと怖いイメージがあり、刀を持ってポーズしても結構様になって、素敵!綺麗!と声を掛けると微笑むけれどすぐ厳しい表情になるのです。この前娘さんと来たタイのママのように、決して満面の笑みは浮かべない。心は許さないのかなと感じて、翌朝夫にそのことを言ったら、長い戦争が何回も続いたベトナム人は、好戦的?なんだというのです。

 ベトナムはもともと北と南に別れている国ではなく、フランス領インドシナという一つのフランスの植民地となっていました。そして第二次世界大戦中に日本の同盟国であるドイツにフランスが敗北し、その時に日本がフランス領インドシナに進駐しますが、それをベトナム人がよしとするわけもなく、後の初代主席となり、共産主義であったホーチミンが独立を得るために抵抗運動を始めます。1945年に日本の無条件降伏を受けて、枢軸国が連合国に敗北、仏印進駐した日本軍勢力もベトナムから消滅し、この混乱に乗じて9月2日ホーチミンを主席とした共産主義国国家ベトナム民主共和国が誕生しますが、かつての君主国であるフランスが君主国として舞い戻り、フランスの傀儡国家が成立してしまい、さらに北ベトナムと南ベトナムの二つの国家に分断されてしまいます。ホーチミンら北ベトナム(ベトナム民主共和国家側)は統一を維持するため、フランスと交渉を続けますが決裂して、ベトナム統一をめぐる第一次インドシナ戦争が始まりました。この戦争は8年間続きましたが多大な犠牲を払いながらも1954年、北ベトナム(ベトナム民主共和国)が勝利を収めます。このとき、ジュネーブ協定が制定され、緩やかに南北統一(南北統一政権を決めるための選挙)を進めるために、国連が北緯17度線を停戦ラインを設け改めてベトナムを南北に分けました。しかしながアメリカの介入などがあり、結果的に南北統一選挙は行われず、北は共産主義国家、南は資本主義国家という形になってしまいました。南ベトナムが資本主義国家になった経緯は、当時アメリカとソビエト連邦をはじめとする国家間の冷戦が背後にあり、南ベトナムは資本主義国家から支援を受けゴ・ディン・ジエムが大統領となり南ベトナム共和国が成立してします。この南ベトナム共和国の政治は、ゴ・ディン・ジエムの独裁的で秘密警察や軍特殊部隊を設立し、共産主義者はもちろん、反政府分子を弾圧し、政府の主要なポストには自分の一族を登用するなど腐敗したものでした。これを是正するために、南ベトナムに住んでいる共産主義支持者を中心に、反政府組織である南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が発足します。アメリカはこの南ベトナム開放民族戦線から南ベトナムを守ると言う名目で派兵を決定しますが、なぜアメリカがここまで介入するかというと、当時のアメリカにはドミノ理論と言うものがあり、これはある国が共産化すると周りの国も連鎖的に共産化するという考えでした。そして、トンキン湾事件(後にアメリカの捏造と判明)が起こり、ついに北ベトナムとアメリカの対立は決定的なものとなり、ベトナム戦争が始まりました。北ベトナム軍やベトコンが用いたゲリラ戦闘はジャングルを利用しアメリカ軍を苦しめますが、この劣勢を打開するためにアメリカは都市部やジャングルへ無差別な大規模爆撃(北爆)を三年間続けますが、それでも北ベトナムの勢力は抵抗を続けます。そしてついに、北ベトナム軍の奇襲的大規模攻勢(テト攻勢)によって、南ベトナムの首都であるサイゴンが陥落しかけ、焦りを感じたアメリカは、怪しいと思った農民をゲリラだと断定し虐殺したり、枯葉剤といったゲリラの脅威を弱めるためにベトナムのジャングルを枯れさせる兵器を使用しました。しかし北ベトナムの勢力は一層激しさを増し抵抗し続けます。

 世界各地の反戦運動を受け、当時のアメリカ大統領であるニクソン大統領は、共産主義で北ベトナムに介入していた中国に介入するのをやめるよう求めるために訪中しますが功をなさず、最終的にアメリカはこの戦争にもはや意味はないということで考えがまとまり、ついに1973年にパリ平和協定を結びアメリカはベトナムから撤退します。アメリカが撤退したあと北ベトナムは南ベトナムに攻撃を続け、強力な後ろ盾をなくした南ベトナム政府の抵抗力はほとんどなく、ついに1975年南ベトナムの首都サイゴンが陥落、翌年北側がベトナム統一を成し遂げると言う形で戦争は終わりました。ベトナム戦争終結から43年が経ちましたが、未だにベトナム各地に戦争の爪痕は残っているのです。

 私はリアルタイムでこの戦争を見てきた、毎日のように報道される世界中の悲惨なニュースをただ字面だけ追ってきたのです。核実験が初めて行われたころ、その影響で黒い雨が降ると放射能感染するから外に出るなと父親に言われた記憶が今もはっきりあります。そして今もウクライナ紛争や北朝鮮のミサイルや中国のコロナ閉鎖による混乱や気候変動など、恐ろしいニュースは絶え間なく報道されている、でも人々はワールドサッカーに熱狂し、日本にはたくさんの外国人が訪れて紅葉などの観光を楽しんでいます。学校で勉強したり進学したリ、結婚して家庭を持ち日々の暮らしに追われていると、小さな世界しか気がつかず、延々と通奏低音のように流れている世界中の真実の動きに気がつかないでいたのですが、沢山の外国人と接するようになり、特にコロナ後のゲストは一人一人とても重い意味を持つ存在になっています。

 ベトナムのママの足の皮膚や顔の表情、それを私がどう感じるかだけの話なのだけれど、例えば柴又のお寺の仏教彫刻を見た時のそれぞれの国のゲストの反応、アジア、ヨーロッパ、アメリカではかなり違いますが、最近強く感じることはこれを長い間かかって精魂込めて作り上げた職人の方々は、決して広い世界を見た訳ではなく、限られた情報の中でコツコツ作り上げてきたもので、コロナ前はその精緻さにアメイジングという賞賛を浴びたのだけれど、コロナ後は反応が違ってきています。インド人のククー君が、いみじくも日本人は本当に仏教を信じていない、ただすべてを真似しているだけだ、この彫刻は中国の模倣、唯一原点であるヒンズー教の彫刻は風神雷神だけだし、何よりもこの埃にまみれた彫刻はひどい!と酷評したのを思い出しますが、アメリカ人が法華経の教えを学校で習ったと言ったことがあるし、読みにくくなった英文の説明も決して仏教の本質を解き明かしているわけでもなかったのです。法華経の文章に忠実に板に彫り込んだ類まれなるこの仏教彫刻は、まぎれもないアートだと思うけれど、そこにはエートスはなかった。コロナウィルス、紛争、気候変動など問題が山積している今のこの時代に解答を与えられる力を持っていないことに私はやっと気がつきました。何が一体人間の救いになるのでしょうか?これからまたゲストが来た時、私は何を語ればいいのか。

 夜に二つ予約が入って、一月に来るのは香港のリピーターのレイチェルでした。この前は赤い振袖を着て髪は長く垂らし、スレンダーで理知的なお嬢さんなのですが、彼女についてのブログを書いたと言ったら読みたいというので英訳した物をみて、哲学的だと言っていたのを思い出しました。コロナを経て、厳しい社会情勢の中で、彼女と何を語るのか、深い解答が出てくるのかもしれません。私の体験とは、ゲストに何かを差し出すものではなく、ゲストからたくさんのヒントを受け取るものなのでした。彼らも私も、何かを表現しようとしている、そしてその表現とは心からの自分の気持ちや意志を携えなければできないものだということが、これほどはっきり示されたことはないのかもしれない。

 これからもし戦争が起きても、どうすればよいか私たちは知っています。ひたすら自分を磨き、成熟する努力をし続け、それをみんなにしめせばいい、どんな小さなことでも、自分ひとりでも、努力し、正義を感じ、美しいものを紡ぎ出すのです。待つのでなく、自分でそれを作りだしていけばいいのです。