男の子たちからのレビュー

 この前来たネパールの男の子と、ピアニストのクリストファーから温かいレビューが届きました。クリストファーはググちゃんと一緒だったから彼女がアメリカに帰ったらレビューを書くと連絡してくれたので、まさかクリストファーがくれるとは思っていなかったし、ネパールのトーマスは一時間早くダッシュで帰ったから、私と一緒で疲れたろうなと心配していました。でも礼儀正しくて優しい彼は、"She was the kindest, most generous person I've met in Japan" と書いてくれ、非公開フィールドには ”Hope you get Yuzuru's tickets!"とあって、電車を待っていた時、彼が羽生結弦選手を好きだと言って、私が興奮してしまったことを思い出しながら、笑ってしまいました。

 村上春樹や三島由紀夫が好きなクリストファーのレビューは”They really like getting to know all their guests from abroad and it shows.”とあって、物事を俯瞰して見ている感がさすがマニアックな日本文学が好きな彼らしいなと感心しつつ、こういうレビューを書いたゲストはいなかったと考えていたら、夜に予約が入り、何とクリスマスの25日にギリシアから男性が一人やって来るというのです。なかなかのイケメンで、私は興奮しながら、最近のゲストの傾向はどうなっているのかわからなくなっています。

 海軍の女の子、スピリチュアルなアクティブガール、アクロバットダンサーのハーフのハワイの女性、リトアニア出身の199㎝ボーイとハワイ出身のハーフの奥様などなど、個性が強く心に強く残るゲストがコロナ以後やって来て、クリストファーが言うように、「彼らは海外からのすべてのゲストと知り合うのが本当に好きです」なのかもしれないのですが、ただのトーキングと違うのは、着物を着て日本文化を体験し、かつ文化について考えるというコンセプトがあるということなのです。コロナ前のゲストは、綺麗な着物姿で寺や庭園や参道でたくさんの写真を撮り異国文化を楽しんでいたのだけれど、コロナ後に来るゲスト達は一人で来て、何かを探すというかこころの方向を見つけようとしてる気がします。今までと同じことをしていても無条件に幸せになるという保証はコロナで打ち砕かれ、少し収束を見せているから多くの外国人が来るのだけれど、ただ日本の美しさや食事の美味しさに感動するだけでは済まない、こんなに危険な切羽詰まった世の中にいる心構えを若い子たちは無意識に探しているのかもしれません。

 昨日は当日の予約があり、のんびり昼寝をしようと思っていた私は慌てて私より一回り大きいメキシコの女の子の着物を揃えたのだけれど、フリーのカメラマンだという綺麗な彼女は次女の手描きの振袖を着て長い髪はロングに垂らし、白いショールをかけて本当に素敵でした。仕事柄か私への気遣いもしてくれて、団子を御馳走になるし、おみやげは一切買わず、好きなアニメは鬼滅の刃、伊之助が好きな陽気でアクティブなメキシカンガールなんだけれど、四人きょうだいの長女で背の高いカッコいい弟君はゲイで、パパには彼女がいて?彼氏とは別れて今はボーイフレンドはいない、働いてお金を貯めて世界中を旅行しているのです。穏やかな参道を見ながら、ホームタウンのエルパソは治安が悪く、警官は全く信用できず夜一人で車に乗っていたら襲われてレイプされるという話をして、私はハンガリーの大統領がここに来た時、お店の方々が小さい国旗を持って並んでいるのを見たスロバキアから来たゲストの男の子が、肩をすくめながら「彼は独裁的でいい人ではないよ」といった話をしながら、日本は単一民族で異質なものに対する防御感覚に乏しく、危機意識がなさすぎるのは、無知や無感動から生じるものだということを思っていました。

 のどかな昼下がりに豪華な振袖を着たメキシコの女の子とするこんな会話が、今現在私たちが置かれているシチュエーションだということを自覚した上で、これから若い人たちはどう進んで行けばいいのか、日本に来た意味をはっきりさせることが大事だと、このメキシコの女の子は教えてくれました。

 菊池寛賞を羽生結弦選手が受賞し、彼のビデオメッセージを見て、珍しく原稿を見ながら硬い表情で話している全文を文章で読んだとき、文学とか美術とかスポーツとかあらゆるジャンルを超えた、今切実に求められている個人個人のエートスは、彼のように自分のやり方で考え抜いて、そして進んで行くことでしか得られないということをあらためて私は感じています。

「失敗してもまた失敗しに行く。それを繰り返して、それでもあきらめずに何度も挑みました。夢はかなうわけではありません。努力は実るわけではありません。頑張ったところで、夢がかなう人は、本当に限られた人だけです。社会の理不尽によって、諦めることもあると思います。自分自身を守るために、諦めることもあると思います。期待される夢も、期待されない夢も、誰にも伝わらない気持ちも、誰にも届かない日々も、ただ同じように過ぎ去っていく日々も、ただ苦しみを味わい続ける日々もあると思います。夢がかなったと思われている人も、きっとその夢のために、諦めて捨ててきたことばかりだと思います。

 私の人生は、沢山の選択の連続でした。その選択が全て正解だったかどうか、わかりません。どんなに悩んで考えたとしても、選択肢には、するかしないかしかありません。その二択の積み重ねで選ばれてきた今が正解なのか、不正解なのか、わかりません。ただ私は、そのすべての選択に意味を持たせたいと思っています。たとえその選択によって失敗したとしても、ケガをしたとしても、何かを得ては失うばかりの日々に、意味を持たせようと思ってきました。

 その時には意味がないように思えたとしても、いつか振り返った時に、意味があったんだと思えるように生きて行きたいと思っています。挑戦はまだ続きます。まだまだ続けます。これから先の選択もたくさん迷い、悩むと思います。この選択があったから、未来もあるんだと思えるように、今を選び続けます 」

 これはもう文学だと思うし、菊池寛賞を受賞したから、彼はこれを書いたのかもしれない。先だって来た娘が、仕事が増えていた中で責任も増し、自分のやりたい事とやらなければならない事の選択に悩むこともあるようで、そんな時役に立つのが、傍から見ると何をやって来たかと思われるような日々の積み重ねだそうです。義母に無視され続けてきた娘ですが、仕事場で義母が着なかった昔の銘仙を愛用し、随分褒められることもあって、仲が良かったんだと思われると微妙な気持ちになるらしいのですが、長い間の積み重ね、葛藤、年月が着物という文化の継承を通じて浄化されていくことを、仏壇を拝みながら「仏様たち落ち着いている」と言いながら感じてきたようです。

 無意味だったり無駄だと思われるような過去の努力に意味を持たせる、選択の是非は、”失敗してもまた失敗しに行く”という究極の腹のくくり方をしていかないとわからない、わからなくてもいい。今を選ぶ難しさ、でもその時々の意味だけは考え続けなければならないし、それが一番の救いになるのでしょう。

 今日は183センチの男の子がシドニーから一人でやってきます。21歳、若い…アジア系の顔立ちで、ネパールのトーマス君みたい。一体何を語ればいいんだろうと思いながら、この前ググちゃんが来た黒い手描きの大振袖をはたいて拭いて畳んでいると、この振袖を作った方々の想いがダイレクトに伝わってきました。生地を赤く染めてから黒く染めたので、黒の深みが増し、そこに佐藤日出太さんという東京友禅の絵師さんが精魂込めて百花繚乱の花を描き上げてくれたのですが、ふと帝釈天の仏教彫刻を作った仏師の方の作品と同じ情熱を感じました。彫って彫って彫って。描いて描いて描いて。技術と情熱と表現したい想いが一緒になって作り上げられたものはもうそれだけが独り歩きしています。文化とはこういうものなのかもしれない、作った人たちの無私な情熱は、それを見る人や振袖をまとう人の心を高みに連れて行ってくれるのです。心を解放してくれるのです。

 今を選んで、ただひたすら努力しましょう。