エピローグ

 なんだかゲストの数が増えてきて、昨日はベトナムの三人の若い女性グループと、一人で旅行しているテネシーに住むデンティストの女性の四人で、着物の小物をマックスでそろえると数がぎりぎりでした。身長や体重を見ながら着物を出しておくのだけれど、今日は150㎝から172㎝までと幅広くて、これまでの経験から高身長の女性が小さい着物を選び、小柄な女性が大きい私の着物を選ぶこともあるので、もうなすがまま選んで持ってくる着物をひたすら着せます。ベトナムの方の名前は難しくてどうしても覚えられず、この前ママとお姉さんが来たリピーターの妹さんに任せて、あれこれかしましく着物を選びヘアも自分達でやってくれるので、私は一人旅のミリアムの相手をしながら先に着付け、アメリカのパパとエチオピアのママを持つ彼女は綺麗なヤングミセス風の着物美女に変身しました。アップの髪には箸の髪飾りを二本差し、とてもクールなセンスを持っているのですが、着付け終わってから延々とメイクアップして前髪をカーラーして巻き、ベトナムの彼女達三人に着物を着せている間も絶え間なく準備していました。

 一人旅のゲストとグループのゲストが一緒になった時、待ち時間が長いと可哀そうなので、ヘアメイクも終わり完成したミリアムを夫が二階へ連れて行って鎧や床の間の部屋を見せていました。ベトナムグループも髪型がユニークで、長い髪を垂らしただけとか、二つお団子のようにした髪に片方だけ桜の髪飾りを付けるだけとかシンプルでカッコよく、私は夫にせかされながらひたすら三人着付け、コロナ後は体力も無くなり年も取ってしまったからきついなと思いながら、案の定150㎝の女の子用に出しておいた小さな赤い着物を161㎝の女性が選んだりしたけれど、この前の七五三でも体格の良いお母さんが持参した頂き物の着物がかなり小さかったけれど綺麗に着せられた経験があるので、何とか無事終了、写真を撮ってティーセレモニーはラストにして三時前に柴又へ出発しました。

 びっくりしたのがミリアムがいたるところで、自撮り棒を使ってずうっと自分の写真を撮ることで、帝釈天の回廊でも四人は同じ場所で延々と何十枚もポーズを微妙に変えて撮影し続けています。仏教も彫刻も興味がなくて、写真を撮り続ける意味が私にはわからず、自分の表情が一番輝く瞬間を撮り続けるミリアムに時々スマホを渡されて頼まれるけれど、どういう表情をしている彼女を撮ればいいのかわからないし、どれも綺麗じゃないかと私は思いながら、綺麗な人は綺麗な人なりに大変だなとおかしくなりました。150㎝の女の子がポージングなど指定して友達を撮っているので、ミリアムの写真も頼んで撮ってもらったけれど、それはあまり気に入らなかったようだし、おなごはむずかしいものです。

 待つだけの私は、この前一人で来たネパールやベトナムの男の子のことを思い出し、お団子屋さんでしゃべくりまくって居たら女将さんがびっくりしてよく英語しゃべれるねと感心されたけれど、長い時間を埋めるためにはひたすら会話をするしかなかった、最後のプレゼントもいらないと言ったネパールの男の子は、地味で感情もあらわさないタイプだったけれど、あとでレビューをもらうと深く感動を覚える場面があった様で、そんなことを感じてくれたのかと私はびっくりしているうちに、新しいタイプのゲストからの問い合わせが入りました。

 アメリカ人と結婚した日本の女性が暮れから十日間くらい三人のお子さんを連れて日本に来るのですが、ご自分も含めて日本文化に触れる機会がなかったので、体験をしたいけれどできるかということです。家族で来る外国人はこれまで十組くらいありました。最近はお父様が日本人だけれど日本語は話せないというハワイに住む女性も二組来ていたけれど、日本人女性が外国人と結婚して海外に住み、日本文化を体験したいというケースは初めてなのです。ハーフの20代のお子さんたちがどんな反応を示すか、着物を着ることだけでなく茶道体験やお寺に行って仏教彫刻を見るということがどういう意味をなすかは、私がとても知りたい事です。日本に生まれ育った純粋の日本人でも着物に対する考え方が違うし、お茶や仏教に関して無関心な方もいます。私の体験をどういう構成で持って行くか、どう組み立てるか、考えなければならないし、長男君の同棲相手の彼女も来るというので大人数着せる体力も付けなければなりません。

 昨日いつも着物をたくさん下さる方が、知り合いに貸すという一回しか着たことがないという秘蔵の素晴らしい着物を見せてくださって、刺繍の桜が咲き乱れる見事なものですが、何とカラオケ大会で着ただけと言われ、何ともったいないと私は思いました。着物も茶道も仏教も、日本の文化というものの意味を持っていなければならない、800人の外国人のゲストが来て、悪戦苦闘しながら柴又を案内し、コロナ禍で2年以上蟄居した後、またあらためて私がみんなと見ている風景は、なんらかの完結した物語として語らなければならないと思っています。

 日本の文化とは何か。それは着物の中に、お茶の中の抹茶に、帝釈天の仏教彫刻の中に語られている意味であり、価値観であり、生命観なのでしょう。人を殺めてはいけない。生きとし生けるものを撓めてはいけないという物凄く単純なことが今現在意味をなさないでいて、テレビを付けると人を殺すことが正当だと、にこやかに権力者が話しているのです。

 素晴らしい着物はたくさんの人に着ていただき、みんなに見てもらおう、抹茶をはじめて飲んだ外国人には作法を教えてすぐお茶を点ててもらう、仏師が精魂込めて彫り上げた仏教彫刻の前では、多民族が真剣に宗教についていろいろ語り合おう、最近お茶の説明をするときに、これは本来はサムライが戦いに行く前に心を静めて無の境地になるためにするもので、小さな茶室の小さな入り口は、刀を持っては入れない、無一物でお茶を飲むと言っているのですが、これから戦い合う日々が来るかもしれない、その時に自分の味方になる文化を拠り所とする価値基準とか、正義感というものは、本当に強くて頼りになるのです。

 ゲスト達と一生懸命英語で話している時、訳が分からなくなってゾーンに入った時がありました。忘れられない感覚です。今度来るかもしれない家族はどんな反応を示すのか、案外しらっと無視されるかもしれないけれど、それはそれでいいのです。私は彼らを見ながらひたすらエピローグを書き続ければいいのでしょう。