サザンカ

 ずっと空気がカラカラだった東京に久しぶりに雨が降りました。でも今日は横須賀から50代のゲストが来る日です。170㎝で細身のアメリカの女性はオレンジの着物を着た写メを送ってくれて、裄が短かったと添えてあったので、私はタンスから私のトールサイズの着物をたくさん出して並べておいたのですが、二時間かけてきてくれたアシュレイがじーっと着物を見ていて手に取ったのは、紺の結城紬でした。とても高品質のモダンな模様のこの結城紬は、娘たちの振袖を縫ってくれた和裁師さんの形見で、お弟子さんだった方に私サイズに縫い直してもらって愛用しているものですが、裾切れしてしまったので洗い張りし、裏地も臙脂から薄いブルーに変えてリニューアルしてからはじめてゲストに着てもらえるのです。これまでベトナム、ブラジル、イギリスの女の子たちがこの結城紬を着てくれたのですが、色とりどりの着物が並べられた中でこの結城紬に魅かれる外国人の気持ちに、私はいつも少し驚きます。

 漢字の寿という文字が配置された帯に娘からもらったくすんだ紫の帯締めを締めて、シックな着物姿になったアシュレイは、写真を撮り二階で鎧に驚き仏壇にお線香を上げ、ティーセレモニーをしている最中に雨も上がったので、雨ゴートを着て茶色の小さいファーを首に巻いて柴又に出かけました。発車間際の電車に乗ると座席にファンキーな白い着物や袴を付けた女の子たちがいて、渋谷で振袖の前撮りをしている娘が今どきの若い子はフリルやヘア飾りなど奇想天外の恰好をすると聞いていたので「あら可愛い」と思ったのだけれど、隣に座ったアシュレイは喜んで話しかけ、日本に住んでいる台湾の女の子たちが浅草のレンタル着物を着てこれから柴又で写真を撮りに行くと聞き、私たちも同じだと盛り上がって、自撮りで写真を撮りその場でシェアして別れました。

 こういうことは日本人は絶対しないし、電車で見かけても見て見ぬふりをして、無視されるのに私は慣れているのだけれど、伝統的な着物を着たアメリカ人の女性と、ギャルっぽいっけれどきちんと着物や袴を着てうさぎの耳など付け、日本の文化をミックスして自分達で着こなしている台湾の女の子たちの生き生きとした喜び方に、私はこれからの文化の在り方を見た思いがしました。決まり通りに振袖を着る姿も良いのですが、どうも自主性がなく魂が込められていない気がするのは、成人式の着付けをした後時々感じるものです。私たち日本人は、身の回りに溢れるほどの美しさや価値のあるものに囲まれているのに、見ていないは何故だろうか。感受性の豊かなアシュレイはこれまでもいろいろ各地のお寺や旧跡を回っているようだけれど、帝釈天のすべてを楽しみ感動して、雨上りで誰もいない静かな庭園を見ながらひたすら涙を流していました。

 オハイオ州に生まれた彼女は女の子3人男の子3人の三番目に生れ、両親はもういないけれどノルウェー人の背の高い旦那様とやはり大柄な息子さんと娘さんを持ち、今は一人で横須賀で働いていて、趣味はホースライディング、静かだけれど面白いタイプです。海軍ではなく民間人で横須賀で働いている彼女の使う単語が私にはわからないものが結構あって、質問されると困ったのだのだけれど、これは沖縄で働いているママがイクメンの旦那さんと三人の子供たちと来た時と同じ感覚で、メールの単語から初見だったりして、ひとつ思考が止まると全く分からなくなってしまうのです。これが第二外国語が英語のゲストだと本当に楽で、ネパールの21歳の男の子と際限なく話ができたことを懐かしく思い出しました。

 それにしても私がエアビーのサイトに書いた文化観に共鳴してきてくれたアシュレイと、帝釈天で再会した台湾の着物姿のギャル(女の子の恰好をした大柄な男の子がとても可愛かった!)がまた盛り上がって、私も入れてもらって写真を撮りながら、成人式の振袖と紋付き羽織袴を履いた男女が足早に過ぎ去っていくのを見て、着物を着ることを楽しんでいるオーラが出ていない事を悲しく思ってしまいました。美しいもの、優れたもの、素晴らしいものに取り囲まれていることを、わが身に取り入れることが文化で、静かな庭園の松や池や木々の配置に心を奪われているアシュレイに、片隅に咲いているサザンカの花が綺麗なアクセントになっているよと教えながら、最近よくきいている「サザンカ」という歌の歌詞を思い出しました。

 サザンカはつめたい冬に咲く美しい花で、その花言葉は寒さに負けず咲く花であることから、「困難に打ち克つ」「ひたむきさ」であり、夢を実現させるために努力を続け、それが報われようが報われまいが、失敗して何度もくじけそうになっても本人が立ち上がる限り、物語は続くというのです。「いつだって物語の主人公は笑われる方だ、決して笑う方じゃない」「誰よりも転んで、誰よりも泣いて、誰よりも君は立ち上がってきた。僕は知っているよ 誰よりも君が一番輝いている瞬間を」結果だけが全てではない。結果に向けて諦めずに頑張っている過程が一番大切だよという歌詞は、最近切実に私の心に染みるのです。この年になってもまだもがいている自分が求めているものは一体何だろう、正月に来た次女夫婦に色々なことで冷笑されたとき、私のやっていることはそんなにも奇異なことで呆れられてしまっていたと気づいた時も、笑われる方でいいじゃないかと考えられるようになったけれど、もがき続けていた私の子育ては子供たちにとって不快なものだったのかもしれない。

 「お母さんは料理が上手くないよね」とお正月に次女に言われてしまい、そうはいっても40年間家族や義父母や従業員の食事を作り、一生懸命頑張ってきたし、最後にそういわれて妙に納得したのだけれど、そんな時に涙を流すアシュレイと二人で静かな庭園を眺めながらサザンカの赤い花に励まされた私は、今何を頑張っているのか改めてわかったのです。着物という日本の伝統文化をまとって、日本の歴史や文化に触れるということは、今まで自分が考えてきたこと、やって来たことを振り返り、これからどう生きて行こうかと考える時の支えになり、指針になり、勇気づけられる何かを感じることができるのでしょう。これまで私がひたすら探してきたのは、何を自分が差し出せるかということだったのです。

 私の体験には意味があると後でアシュレイは言ってくれたけれど、外国人に着物を着せて歴史や文化を辿ることこそが、私にとって意味があることだった。文化とは何か。着物とはなにか。しばらく干しておいたゲストの香りの付いた振袖を畳みながら、あの中国の女の子はこの赤い振袖を着て本当に嬉しそうだった、かなりふっくらしているゲストに着せた黒の大振袖はちょっとほつれてしまったけれど、混み合った参道でその模様が浮き出し、「綺麗…」とずいぶんつぶやかれたっけ。生きた人間が文化を体感して、喜びにあふれ、静寂を感じ、自分が美しいと心底思う、その現場に立ち会える幸せを味わうために、私は今まで努力してきたのでした。文化とは人が幸せになること、人を幸せにすること、それを見て幸せだと思うこと、それに尽きると思います。

 800人のゲストに着物を着せて、それを見て本当に綺麗だと思った日々を思い出しています。