アナーキック・エンパシー   

 このところ毎日忙しくて、着物の仕事となると頑張れるけれど、終わった後は早くに寝ないと疲労が取れません。エアビーの仕事と個人的な依頼の仕事と気の使い方が違いますが、やはり最後は同じやり方で締めくくります。夜早くに寝たので朝早く起きてまだ暗いベランダに出ると、三日月が低い空に見えます。月を見るのは久しぶり、このところいろんな国のゲストが来ているけれど、それぞれ色んな所で月を見ているんだなと物思いにふけってしまいます。

 最近英国人の旦那様とイギリスの田舎町に住んでいる50代の日本女性のブログをよく見ているのですが、彼女の名前はMIKAZUKIさんなのです。子供さんたちも独立し、ちびという名のワンちゃんを可愛がりながら料理をしたりお菓子を作ったり、パブでご飯を食べたりする映像を見ながら、こうやってイギリスで静かに暮らす彼女の心象風景を追体験していると、異国の文化の中で暮らすのは大変かもしれないけれど、日本にずっと暮らしている私にとっていろいろ刺激になるし、何よりたくさんのゲスト達が日本の着物を着て日本文化を体験するということの意味もまた違って考えられるのです。

 前にアメリカ人の旦那さんと結婚して子供さんが三人居る方が、みんな日本の文化を知らないので是非体験させたいと問い合わせて来て、結局スケジュールが合わず取りやめになりましたが、四時間の日本文化の体験というものが彼らにとってどんな意味になるのかはとても微妙な問題だと、沢山のゲストと共に過ごした時間を振り返りながら私は痛感しています。日本人は毎日抹茶を飲むの?と聞かれて、Noと答えるけれど、人により時により多くの方が文化を味ってはいます。でもそれができない異国に住む方にとってはマイナスの感覚や渇望感も凄いものがある。イギリスに住むMIKAZUKIさんはイギリス文化をどう味わっているのだろう。

 

 アイルランド出身の御主人と結婚してイギリスに住むブレイディみかこさんの「他者の靴を履く」”アナーキック・エンパシーのすすめ”という本をやっと借りることができました。何十人もの予約があってやっと私の番が回ってきたのですが、今この時に読むべきタイミングだなと不思議な気持ちになります。初めにシンパシーとエンパシーの違いについての考察が続くのですが、シンパシーとは感情とか行為とか友情とか理解とか、どちらかと言えば人から出てくるもの、または内側から沸いてくるもので、かわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動だとあります。

 夫が同じ年齢の方々とグループラインをしていて、何かトピックをあげた方にみんながメッセージを寄せるのだけれど、これはシンパシーでないと違和感が出てきてしまう、反対にエンパシーは必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業で、たった一つでなければならず、たった一つであることが素晴らしいのだという思い込みから外れ、他人が抱いている感情すべてを自分のものと感じること、相手と同じレベルの気持ちになり、感情移入することを表すのです。シンパシー(同情)は相手の感情を上から眺めている状態、エンパシー(共感)は相手の感情を自身も感じ、寄り添っている状態で、他者を学ぶこと、考えること、想うこと、すべては君の自由のためというブレイディさんの本の帯の書かれた推薦のこの言葉が胸に響きます。

 

 英国人の旦那様と文通していて、会ったのはたった二回で結婚したというmikazukiさんはエンパシーの能力に長けた方でしょう。「自分がその人の立場だったらどうだろうと想像することによって誰かの感情や経験を分かち合う能力」つまり知的作業であり、それができる能力、アビリティは、湧き上がる感情に判断を曇らせることなく、意見や関心の合わない他者であってもその人の感情や経験などを理解しようと、自発的に習得するものなのだそうです。エンパシー能力が高い人は、そうでない人に比べて、世界の見方に広がりや深みが出る、という点が挙げられ、共感をベースとしない他者理解を絶えず行うことで、自分とは違う価値観や世界があることを理解できるのでしょう。「ここではない世界や価値の尺度が複数ある」と実感することができるので、「今いる場所でしか生きられない」と切羽詰まることもない。世界は広いし、価値観は多様だと知っているから、根本的に楽観的になれるのです。自分とは全く違う他者の経験や考えに触れることで、自分との違いを認識し、自分のアイデンティティや感情をより深く理解できることは、個人が自分のために身につけておくべき能力であるとともに、生き延びるためのスキルともいえるのです。

 私は地元に住む日本人の夫と結婚し、古いがんじがらめの家長制の自営業の家で長いこと過ごしてきました。仕事の手伝い、子育て、看護、介護と夢中で過ごしてきて、従業員も多かったしその世話や食事作りなど、日本の中で日本人の感覚でずっと生きて来て、コロナを挟んでエアビーの多くの外国人と接する経験をして、そしてこの混沌とした世界情勢の中で危機が迫っている、何とかしなければとなった時に、互いの言葉の背景を理解した上で話し合って落としどころを見つけるしかない、それは「穏当であれ」(reasonable)ということです。実はこれがエンパシィーの肝で、理にかなった判断力があり、公平で分別がある、ベストではないけれど「十分によい」状態を指す、人間にとって重要なのは「合理性ではなく穏当さ」だというのです。義父がよく「いいかげん」というのは「いい加減」なんだと言っていて、互いにいい所を取ってベスト・ソリューションではないけれど、good enoughで「まあ受け入れられるよね」という方法を見つけていく。異なる伝統や価値観を持った多種多様な人々がエンパシィーを使って話し合い、その時その時で折り合って解決法を見つけていくことが一番大事で、人間の自由を奪うあらゆる制度や思想、同質性を強要する社会システムや集団真理はまさに「亡霊」のように人々を縛り付けています。自分自身を生きることを許さない同質性の強い社会は、マイノリティは勿論マジョリティの側にも息苦しさがたまり、活力がなくなっていくのならば、現状を疑い必要があれば作り直す必要があることを認識したうえで、相手の立場にわが身を置いて考えること、簡単に言えば「疑いながら理解する」ということ、だからアナーキー(疑い)エンパシー(理解)なのでした。

 着物道楽の知人が、七五三の写真撮りにお嫁さんに志ま亀の高級な訪問着を貸して、スタジオで家族で着付けてもらったら、そこの貸衣装を着た旦那さんと五歳の男の子はちゃんと着ているのに、お嫁さんだけぐさぐさに着付けられてひどかったと言って、その写真を見せてくれました。彼女にこれまでも着物を着付けたことがある私は、高級な絹の質感のある着物をボディに着せる練習をしていてなかなかうまくいかず、根をあげた経験があるので、これだけの着物を着せる技量とはすぐできるものではないし、自分がそういうものを着た経験があり、例えば観劇に行くとか食事会に行くとか、それなりの経験をして、着心地や動き方の経験をしていないと厳しいものがあると思っています。

 重厚な立派な帯を細いウェストの女性に締めるのは本当に大変だし、何百人という様々な体型の外国人に着付けをしている私はいまだ発展途上の修行中なのだけれど、それこそこれでいいのかしらと疑いながら相手の身体や性格を理解していくことはアナーキック・エンパシーがないと難しい。でも考えてみると、結婚も子育ても仕事も介護も、何が正解なのか、正解が存在するのかも分からないし、だから私は散々迷いながらここまで生きて来て、それを子供たちに批判されると申し訳ないなと思うのだけれど、そういう風に進まざるを得なかったのでした。それが私のアイデンティティだった。でも今着物を含む日本の伝統文化を外国人に理解してもらうという仕事をするようになって、毎回毎回違った国から違う民族のゲストが来て、まず彼らを理解しようと努力し、どうやって4時間を組み立てて最善を尽くせるかという努力をしてきた意味は、いったい何になるのかと思います。

 イギリスに住むmikazukiさんが愛犬ちびを連れて散歩しているご主人を後ろからずっと撮影していて、時々ご主人が振り返って彼女を見るまなざしの温かさにひどく心打たれます。異国で暮らしても、自分の国で一生暮らしても、どこにいても振り返って自分を見てくれる誰かの存在があれば、そして自分も誰かを見つめ続けていればそれでいいのかもしれません。

 

 夜中に今日の予約が入りました。20歳の中国のカップルみたいです。体重が140㌔と100㌔… いやーどうしよう。ずっと家の前の道路を工事していたので、玄関も埃だらけです。まずは掃除をしないと。