チェコとマレーシアとアトランタ

 2月22日と2が続くこの日、またまた慌ただしく突然のゲストが入ったり、義母の酸素濃度の値が低くなって施設から連絡があったり、目まぐるしい一日となりました。この前入院した病院に行くことになって夫は付き添いで出かけ、私は三人のゲストを待っていましたが、電車を間違えたとか乗り越してしまったとか次々入るメールに返事をするのに追われていたら、定刻少し前に静かにマレーシアからの女の子が現れました。静かで知的な彼女は小柄で、好みの着物や帯を選んでいると、そこへ浅草で買った人形や小物の入った袋を下げた小柄な男性が到着、賑やかに挨拶すると早速袋の中のおみやげ品を見せてくれ、足には浅草の模様が沢山ついた足袋ソックスを履いているのです。残念ながら左右が逆なので履き直してもらい、着物の選択の終わった彼女はヘアメイクをして、その間に男性の着付けを始めました。彼の身長は163㎝で、うちにたくさんある一般的日本人の着物がジャストフィットし、いろいろ選んでいるうち大島のアンサンブルが気に入り、ちょっと長めだったけれど着せて、ハットを被ったらナイスガイの着物姿になりました。

 彼はヘアメイクの終わった彼女に写真撮影を頼み表へ出て撮り始め、そこへちょうど夫が帰ってきて、駅を乗り越したアトランタからのゲストも華々しく登場、またまた混乱した現場になりました。南部訛り?かどうかわからないけれど、機関銃のように早口でしゃべるアトランタの英語が聞き取れず、それでもマレーシアの彼女とよどみなく話し始めたのでホッとしながら、夫も加わったのでいつも通りのペースに戻り二人ともピンクの着物を選んで、私は動画を撮られながら着付け、5時には帰らなければならないという、会社を経営し地元でも民泊用の大きな家をもっているスーパーホストのジニのペースに煽られつつ、柴又に出かけました。いたるところで写真を撮りながら三人とも異様にハイで、水曜日で静かな参道でも突拍子もないポーズを取り続け、達磨を買ったり、庭園ではそれぞれ写真を撮りながら、マレーシアの彼女が写真を撮るときも細かくポージングを指示して、私の出る幕はないので、ひたすら時間を計りながら追い立てて、仏教彫刻までたどり着きました。

 マレーシアの彼女は仏教徒、そして透き通った眼をしたスキンヘッドの46歳のミレックはカトリック、チェコスロバキア生まれで今はフロリダに住む多分独り身の男性で、エジプトを旅行している写メを見せてくれました。うちのカウンターに次女がチェコを旅行した時買ってきたお土産の栞があり、ミレックはとても懐かしがって、いろいろ話してくれましたが、チェコは寒いのでフロリダで働いているけれど、家族はチェコに住んでいて、ママへのお土産は日本人形だそうです。チェコからは何人かゲストが来ていましたが、印象的なのがコロナ後に沖縄から生後半年の女の子を連れて車で来た細身の綺麗なベロニカで、赤ちゃんを前抱っこして二時間の体験中外をずっと散歩していたパパは黒人の男性で、あの時は本当にびっくりしました。神社の好きなベロニカのために、赤ちゃんと三人で近くの天祖神社へ行った時「好きな日本の食べ物は?」とパパに聞いたら「鰻」と即答し、たれで茶色くなったご飯が好きと言うので笑った私ですが、何回か「チェコスロバキア」と言ってしまうとそのたびに「チェコ・リパブリック」と訂正されたことをミレックに話しました。1977年生まれのミレックに何か国語話せるか聞くと、チェコ語、ロシア語、英語だそうでロシア語は学ばなければならなかった?でもロシア人は好きではない、と肩をすくめていました。コロナ前にスロバキアのカップルが来て、仕事はIT関係?と聞いたらよくわかるねと驚かれたけれど、夫曰く旅行ができる人達は今はそういう仕事をしているというし、ちょうどハンガリーの大統領が来日していて参道のお店の人たちが旗を持ってならんでいるのを見て、「彼はいい人ではないよ」と言ったことを思い出して、今頃チェコスロバキアの歴史をいろいろ調べて、あらためて納得しています。

 今まではこれまで世界を支配していた国からのゲストが多かったのでしたが、コロナ後はアジアでもヨーロッパでも、植民地化されていて苦難の歴史を経て独立した国々の方が来ています。香港、台湾、マレーシア、フィリピン、インドネシア、ベトナム、チベットなど、今までとは違う感触だし、スイスに住むアルバニア人の女性と共に過ごした時間は不思議なものでした。世界の生きた歴史を学んでいる私は、それでも着物を着せ、いつものコースを辿り、仏教彫刻の説明をして、最後に抹茶を点てています。

 文化とは何か。着物とはなにか。生きた人間が文化を体感して、喜びにあふれ、静寂を感じ、自分が美しいと心底思う、その現場に立ち会える幸せを味わうために、私は今まで努力してきたのでした。文化とは人が幸せになること、人を幸せにすること、それを見て幸せだと思うこと、それに尽きると思います。私たちの生きている意味は、世界は美しいということを認識することでした。自分のテリトリーで、自分のツールを磨いてより美しいものを作り上げる努力をする、そのために日本文化も着物もティーセレモニーも存在していた。人を救えるのは世界の美しさだけなのかもしれない。美しさに近づくために、だから私たちは努力し続けるのです。

 結果だけが全てではなく、結果に向けて諦めずに頑張っている過程が一番大切だとしたら、これまで私がひたすら探してきたのは、何を自分が差し出せるかということでした。 着物という日本の伝統文化をまとった外国人と、日本の歴史や文化に触れるということは、今まで自分が考えてきたこと、やって来たことを振り返り、これからどう生きて行こうかと考える時の支えになり、指針になり、勇気づけられる何かを感じることができたのです。

 帰り際、ミレックはプレゼントした着物を着て帰り、マレーシアの彼女には部屋着用に白い長襦袢をプレゼントし、そしてアトランタのジニはワインレッドの別珍の着物用ハーフコートを着て、喜んで帰りました。コートは外国人も日本人も愛用していたので、私はちょっとためらったのですが、大柄で金髪で明るいジニがこれを羽織って帰ったら目立つだろうし、日本文化の極致、このコートの持ち主だった方も本望だと思うと、ちょっと惜しい気がしている私の気持ちはやっぱり浅ましい欲なのでしょう。

 二月の仕事はこれでおしまい、三月に備えてまた新しく支度をします。わたしのこれからのGIFTは何になるのでしょうか。