三月に

 気がついたら世界があった。息をしていた。自分は何だろう。でも名前はあった。好きなものもあった。その大好きなものになりたかった。そのたびに世界があったかくなった。その世界が大好きだった。

 

 そんな独白から始まるアイスストーリーを東京ドームで見ました。華麗なステージで素晴らしいテクニックのスケーティングを見せながら一流のアーティストと共演する目も眩むほどのショーなのに、間をつなぐナレーションは闇に沈むように暗いのです。

 気がついたら世界があった。4歳からスケートを始めた羽生選手の小さい時の記憶が何処から始まるかわからないけれど、「好きなものもあった。少しずつできることが増えた。その世界があったかくなった」と続き、その感覚を求めてスケートに励み、頭角を表せば表すほど、彼の人生は特化したものになっていくのです。

 スケートだけ。スイミングにも塾にも遊びにもキャンプにも行かず、ひたすらスケートを続けながら、ひたすら一人だったという。でも大切なものさえあればいい、世界をあったかくする術を求めて、彷徨い続ける心象風景は、ドキュメンタリー映画であり、心理小説のように思えます。苦しくて苦しくてどん底に落ちてばかりいる。普通に遊んだり怠けたり恋をしたり悪さをしたりすることは、彼の頭にはなかった。「タノシイヨネ。タノシイヨネ」テクノポップな歌に合わせてキレ切れのダンスをスケートで踊るのを見て観客は熱狂するのだけれど、それすら物凄い反語だった。

 長いものに巻かれる卑怯者たちが言いふらす嘘の「嵐の中」で、相手を陥れるために事実を曲げて嘘を言う、人が行うべき道理を捻じ曲げて間違ったことをする人たち。権力者の発言とあれば意味を知ろうともせずに「美意識だ」「これが最善だ」と崇めている人たち、自分の事ばかり考えて人間の本質を見ようとしない人たちとの化かし合いに加わるくらいなら、いっそ悪魔の側に堕ちる方が清々しいという世間の在り方に真っ向から勝負しようとするこの歌「阿修羅ちゃん」顔も名前も知らない誰かを気にして生きるのがこの世の常識なら、自分は悪役になってもそのルールに逆らって生きて行きたい。「できなきゃ意味がない、なら今の僕は必要ないのか」「こんな僕のこと、誰がわかる?一生わからない」内面の葛藤を作品に仕上げる術まで会得した彼は、競技者として抱えてきた苦悩を新たに身につけたプロとしての技術により洗練された表現に昇華して、キレキレの「阿修羅ちゃん」を踊ってしまいました。

 

 好きな道を邁進し数々の偉業を成し遂げた中でいつも付きまとわれる不安と孤独感、大切なものを追い求めて気がついたいつも一人きりという感覚、その葛藤 ただ苦しみもがいた自身の過程がある日、光を連れてきた。自分が殻を破る時まで闇の中でもがく事しか次の扉は開かない。痛み、苦しみ、葛藤、そして優しさ、強さ、温かさがある物語を彼は作って、それをたくさんのサポートと後押しで、一夜限りのステージを見せてくれたのです。スケートの事は何もわからないけれどお母様の介護の合間を縫って見に来た方が、最初から最後までずっと泣いていたというエピソードを聞いて、その気持ちが良くわかるし、自分のしていることの意味も解らなくなりひたすら孤独で取り残されて何もしたくなくなる、そして鬱になったり精神的に病んでしまうところまで行ってしまうこともあるのです。家族にも理解されず異端視される哀しみ、でも自分の大事にしているもの、守っているものをどうしてもないがしろにすることはできない、そして行きつく孤独。それを抱えている人はたくさんいて、そしてもがいているのです。

 それを知っているからこそ、華やかで素晴らしい演技をつなぐ独白はモノトーンでだからひたすら暗い、でも、自らの苦悩をさらけ出す作品をたくさんの人達と共有することで皆が抱えている苦しみを和らげようと彼は試みました。暗闇も光も、影も輝きも全部見せてくれる、太陽と月と星々、そして木々や川や風といった命、安心できる場所、帰って来られる場所。自分が何をすることが幸せなのか。どう生きれば良いのか。子供たちにどう育ってほしかったのか。私にはいまだわからない。何が一番大切だったのか、どう選択して生きて行けばよかったのか。自分の気持ちはどこから始まるのでしょう。

 小さい時の記憶、病弱で本が好きで一人で空想に耽り、一生懸命勉強して良い成績をとったけれど、それが何になるのかわからず、何かを表現したいという欲求は強かった。でも何に秀でているわけでもなくでたらめな模索を繰り返し、逃げるように結婚という道を選びました。子供たちにも何を要求していいのかわからず、世間一般のレールに乗れることを考えてしまった。本来の人間は運命に閉じ込められた存在ではなく、運命そのものを作り出せる存在なのに、マテリアルな価値観に囚われたりこれまでの常識にがんじがらめになっていると、自分自身が苦しくなってしまいます。でも、コロナウィルスの洗礼を受け、各地で起きている怖ろしい紛争をみながら気候変動や人心の乱れがマックスに近づきつつあることに気がついた時、数年前の世界と今私たちがいる世界はもう全く別の要素に基づいていて、もう個人がダイレクトに高次元領域と繋がって豊かな価値創造をすることが必要だし、それを能動的に使いこなす資質を持つ人間が求められてきていることがわかりました。時間や空間の”間”の本質を理解して使っていくということは難しいけれど、時と丁寧に向き合う感性が欠かせないし、時間には宝物が織り込まれているように、空間というフィールドにも豊かな価値が隠されているのです。今回東京ドームという空間を駆使して、羽生選手の存在を媒介に優れたアーティストたちが自分の技術を惜しみなく提供して新しい物語を作り出す、それは誰かと繋がっていて、それは自分の味方で、苦しい時や辛い時はいつでもそこに帰ることができるものなのでした。

  クイーンのフレディ・マーキュリーの映画を見た時、何かと戦い、何かに苦しみ、それを観客に痛切に訴えている姿、一律同じようにきれいな見た目や一定の人生を望むことがベストと思わなければいけないなら、規格外の私は生きている価値もないといわれてしまいそうで、そんな中裸になって王冠と長いマントを羽織り、我々はチャンピオンだと絶叫し命がけで自分の生き様をさらけ出しているフレディに観客たちが熱狂し涙している気持ちがよくわかったのです。

 我々は何で戦うべきか。バレリーナのロパートキナのインタビューで、「瀕死の白鳥」を何度も踊っているとき生と死の境目を行ったり来たりしている感覚、壁を通り抜ける感覚が大事で、そこに至るまでの努力は常に怠ってはいけない。突き詰めて、突き抜けて、そして何かから自由にならなければならないというようなことを言っていたのが印象的でした。最後の最後まで、考えること、向上すること、もっともっとできることを考えること。60年以上かかったけれど、今私は自分がやらなければないことがやっと見えてきています。心から大切なこと、大好きなこと、心があったかくなるもの、その世界を作り出すこと。人は一人では生きてはいけないけれど、一人になってしまう時でも、一人がいい時でも、大丈夫だよと言って心の扉を開けることができる。たとえどんなに孤独であっても、彼の物語は皆さんのために絶対にそこに存在する。

 柴又の彫刻みてると、もっと彫り込もう、もっと考えようと際限なしに進んでいく彫刻師さんたちの姿が目に浮かびます。仕事しているとき楽しいんだろうなと思います。あまりに多く彫ってあってどこにお釈迦様いるのかわからないときもあるのですが、それが彼らのやり方だし、日本人の特性なのでしょう。何百回と見ているのに、私にはこの物語を消化することができません。彫り師さんたちの物語、今度はそれを考えて行こうと思います。

 

 村上春樹の新作は「街とその不確かな壁」と発表され、「その街に行かなくてはならない。なにがあろうとーー<古い夢>が奥まった書庫でひもとかれ、呼び覚まされるように、封印された”物語”が深く静かに動きだす。」どうしてもこの物語を語りたいという強い意志がそこに隠しようもなく表れていて、ある強固な物語の方法によってしか語られ得ないもの、実際にはあり得ないものを通してしか喚起され得ない感情がそこにあるということ、そしてそれが自分には語り得るのだという村上の初期衝動にも似た明確な意気込みがそこに密封されているというのです。

 とことん集中して考えること。今それをやっていきます。