春よ来い

 雛祭りが終わったらだんだん暖かくなって昨日は四月並みの陽気になるというので、毛皮のファーや白いショールを片して新しい足袋ソックスもおろし大人数のゲストを迎える用意をしました。台湾からのカップルは奥様だけが着物を着て旦那様はカメラマンでいいかと問い合わせがあったし、ロンドンから来る若い中国系の女の子はフォトグラファーの勉強をしているというので、今日は私は撮影で苦労する心配はないと安心していました。ただオーストラリアから来るゲストが女性だけれど男物の着物を着たいとあったので、デニム着物にするか袴がいいのかスタイリングに時間がかかりそうな気がして、若い助っ人に来てもらいアレンジをお願いしました。

 英語が話せないとためらう彼女に、夫がフォローするから大丈夫と安心してもらい、台湾の夫婦が定刻前に現れ、そしてロンドンから大柄で賑やかなジャネッタ、ラストにオーストラリアの女性たちが到着、あれっと思ったのはショートカットのボーイッシュなシミンは素敵な男の子の外見なのです。四人とも同じ言語だそうで話が弾み、賑やかに着物を選び始め、初めはデニム着物がいいかと思ったけれど明るいブルーの男物のアンサンブルが気に入りそれがとてもよく似合うので、夫があまりに細いのに苦戦しながら頑張って着せてくれ、清々しい着物姿になりました。シャイで無口なんだけれどパートナーのミカちゃんと仲良く助け合いながら扇子やバッグを選び、助っ人さんに女性陣を着付けてもらいながら私はヘアメイクをして、何とか早めに終了、水曜日の柴又は混んでいないから余裕をもって出発しました。

 華やかで綺麗な訪問着姿の女の子たちは興奮してはしゃぎ、ハネムーンだという台湾夫婦はカメラマンの旦那さんが専属でいたるところで写真を撮っている中で、参道を歩いて居た中年のアメリカ人の男性がシミンの着物姿に魅かれて声を掛け、いろいろ話しているのに私はびっくりしました。これまでたくさんのゲストが男物のアンサンブルの着物を着たのだけれど、正直声を掛けられることはなくて、日本人から見ると古めかしいスタイルだと思うし、だから最近はデニム着物のアレンジを勧めて黒いハットにブーツがカッコいいよというのだけれど、あらためてシミンのたたずまいを見てみると、何とも言えない精神的な波動が感じられるのです。

 数々の体型のゲストに男物の着物を着せてきた夫に後で話を聞くと、着せているときの彼女はこれまで何かにずっと耐えてきた感じがしていたといいます。自分のアイデンティティ、オリジン、気持ちの在り方に悩んでいるゲストはこれまでにほんとうにたくさん来ました。それについて語り合うことはなかったけれど、着物を着せて寺町を散策しているいろいろな場面で、私はゲストの沢山の気持ちや表情をただ黙って見て来ました。食い入るように仏教説明のプレートを読んでいた女の子、ペアで来ているのに彼の気持ちがわからない焦燥、心が虚ろで着物を着ても反応しなかったロングヘアの長身の男の子が酒アイスを食べながら柴又の参道のでふと見せた微笑み、ナーバスな気持ちで現れた二人の女の子が笑いながら男女の着物を着て写真が撮れたこと。その瞬間をcherishしていると書かれたレビュー。

 感受性、感性が鋭い子ほど、生きるのに躓くことが多いし、何かを隠して生きて行くことに何の価値があろうかと考えていると、それだけで疲れ果ててしまいます。だけど、だけど、それでも世界はあったかいのです。あったかい世界が、昨日の帝釈天の回廊にあって、春のような日差しを浴びながら、際限なく写真を撮り続けた彼らの心の中に、春があったことを私はひたすら望んでいます。また寒くなるかもしれない、桜がいつ咲くか、わからないけれど、春よ来いとひたすら望み続け、その春とは希望であり望みであり、そして自分達が作り続けなければならない永遠なのでしょう。

 ロンドンから来たジャネッタは何と東京ドームのアイスショーを見に日本に来ていて、仙台まで行って羽生選手のゆかりの場所をめぐってきたと聞いて、私は興奮しながらスケート雑誌やミニタオルを彼女にプレゼントし、台湾の奥様は最近頂いたローズピンクの道行を選び、ミカちゃんはチェックの黄色い可愛い着物コートを着て帰りました。そして長考していたシミンが選んだのは近所のクリーニング屋の奥さんに戴いた姑さんの形見のカシミアの黒い和装コートで、それに惹かれた彼女の気持ちと働きづめに働いてきたおばあちゃんの山あり谷ありの長い人生や、それをゲストにあげてと下さったお嫁さんの気持ちが全てリンクして、私は何とも言えない気持ちになりました。

 着物があって文化があって、それを着る人の気持ちがあって、シチュエーションがあって、いろいろな人に助けてもらって、声を掛けてもらって、温かい日差しの参道を歩いて、そしてうちへ帰ってきてお腹が空いてお団子を食べて、ティーセレモニーをして、着物を脱いでほっとして、着替えて荷物を持って別れる。私はシモンの目をずっと見ていました。

 来てくれてありがとう。着物を着てくれてありがとう。

 それはすべてのゲストに言いたい事です。

 一番大事なのは 春よ来い と思い続ける心だと、今感じています。

 私の体験は、物語をつくることなのです。