イースターのプレゼント

 強い雨の降った昨日とうって変わって、今日はとてもいいお天気です。昨日来たゲストはさぞ大変だっただろうと思うのですが、ルーマニアのゲストはすぐにレビューを書いてくれ、100%良かった体験だったと言ってくれたのが意外で、でも本当に私は頑張った、みんなも頑張った、その証なのでしょう。

 今日のゲストはアメリカのミシガン州からの四人で、同じ病院で働いている同僚だそうですが、私がどうしても名前を覚えられず、アマンダとジェシカを間違えてばかりいて申し訳ないことをしたと反省しています。ゴルフの上手いジェイの婚約者が二つ年上の小柄なアマンダ、彼女は薄紫の上品な訪問着を着てとても素敵で、八月に結婚すると興奮しているジェイと、キスをしながら写真を撮られていました。一番若いボスのケイリーと日本語も話せるジェシカはお土産を買ったり文化について話したり、天気の良い日の柴又を楽しみ、電車の待ち時間は屋台で買ったタコ焼きを食べてお腹を満たし、帰って最後ティーセレモニーをして、帯をそれぞれ選んで体験を終えたのですが、最後の最後に私にメッセージを書いたカードとイースターのチョコレートがいろいろ入った紙袋をプレゼントしてくれ、私はびっくりして泣いてしまいました。前に来たスペインのゲストの女の子が最後に泣いてしまって驚いたのだけれど、私は初めて彼女の気持ちがわかりました。

 いつも本当に満足してもらえる体験ができたのだろうかと不安になる私ですが、結局それも欲なのでしょう。お寺を回り帰ってきてからは、夫がティーセレモニーの前のちょっと一杯の日本酒から仕切ってくれるので、私はひたすらお茶を点て、全部終わって着替えて帰る時にまさか彼らがサプライズを仕組んでくるとは全く予期していなくて、嬉しくて有難くて、涙が出たのです。前に来た日本で働いているゲストが6月にアメリカに帰る前に着物を着て一緒に歌舞伎へ行かないかという誘いのメールが来たり、今までとは違ったゲストの動きがある一方、体調を崩したり精神的に不安定な方が増えていると、お嬢さんの小学校卒業式に着る着物を借りに来た若い知り合いが言っていて、コロナワクチンを体内に入れたことの悪影響がだんだん明らかになっている事実がある、実は私のところに来る方々はワクチン接種をしていないのです。何が良くて何が悪いか、もう何も信じることができない。怖ろしい道を私たちは歩いて居る。桜が咲いて、野球に熱狂して、外国人もたくさん来ているけれど、私も彼女も明日は何が起こるかわからないし、この仕事もいつまでやれるか見当もつかない、でもそれでいい気がします。

 経済も不安定になって、相変わらず紛争は続くし、もう何が起きてもおかしくないのだから、とにかく好きなことをして一日一日を楽しく生きて行くと言って帰って行く彼女を見送った後、戴いた沢山のイースターのチョコレートを開けてみました。相変わらず無知な私はイースターの意味もよくわからないので調べてみると、春分の日以降の最初の満月の日の翌日曜日がイースターで、町中にうさぎや卵をモチーフにした飾り付けがほどこされて、華やかで明るい雰囲気になるのだそうです。イースター(復活祭)は、キリスト教会にとって最も重要なお祝いの一つで、十字架の上で殺されたイエス・キリストが3日目に復活したことを祝うのですが、キリスト教が「イエスが復活した」ことを盛大に祝うのは、イエスの時代エルサレムのユダヤ人は「過越しの祭り」の初日に食事会を行い、でもこれは十字架にかかる前の夜に弟子たちとした食事で、神の裁きはキリストの血で覆われている民を過ぎ越してくださり、イースターの希望は私たちも将来朽ちない体で復活する、既に復活の命を頂いているところにあるのだそうです。罪の奴隷状態である私たちのために十字架にかかり、罪から自由にしたことを感謝すると同時に、キリストが死を打ち破って3日目に復活して、私たちに永遠の命を与えてくださったことを祝うのがイースターです。死を打ち破り復活したキリストに参与し、新しい命の中で今されていく、これこそがキリストの復活を祝う理由なのです。もしも私たちの間に愛がないなら、どんなに長生きをしたとしても、それは無味乾燥とした歩みでしょう。一方で、私たちのうちに愛があったとしても、やがて死んで「無」になるのであれば、それもまたむなしいことです。しかしキリストの死と復活は、永遠の命の約束と、神の愛のメッセージの両方を力強く語っているのです。父なる神が最も大切にされ、愛されていたのが、神の独り子キリスト・イエスでした。しかし父なる神は、その愛する独り子を私たちの罪のために、十字架の犠牲としてくださいました。それこそが私たち一人一人に対する神の愛のメッセージです。その後、神はキリストを死者の中からよみがえらせ、彼を全人類の初穂とされました。これは神の命のメッセージです。

 キリスト・イエスが初穂として復活したということは、単に「すごい奇跡」という以上の意味を持っています。彼が初穂として復活したということは、私たちも彼に続いて復活するということだからです。麦は地に蒔かれなければ、実を結ぶことができないように、人は死ななければ復活することはできません。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

 なんだか何百回と帝釈天の仏教彫刻の前で言葉に詰まっている私は一体何なんだろうと考えつつ、3月21日は一粒の種籾が万倍にも実る黄金色に輝く稲穂のように縁起がよく開運日といわれる「一粒万倍日」と年に数回しかない最上の開運日「天赦日」と「寅の日」そして祝日の「春分の日」が重なる超最強開運日と知ってから、今日は柴又の万福寺へお彼岸の法要にいきます。仏教とキリスト教といろいろな思いが交じる中、ロシアと中国の二人が正々堂々と密談をかわしています。一体このメタファーは何なのでしょうか。