お彼岸の御説法

 春分の日の今日の午前中は、手に汗握るWBCの日本対メキシコの準決勝があり、夫はハラハラしながらテレビにかじりついていて、最後大谷がヘルメットを飛ばして二塁に駆け込み雄叫びをあげると、不振の村上がサヨナラヒットを打って、私はあまり熱心なファンではないのだけれど、みんなが抱き合う姿を見てほっとしてしまいました。機嫌のいい夫を残して柴又の萬福寺にお彼岸の法要に行ったのですが、コロナ後は参詣者の数が減り、私も含めみんなガクッと年を取って、足元もおぼつかない方も増えました。

 イースターでキリスト教の事を調べていたので、お経を聞きながら仏教とキリスト教の事をずっと考え、キリストは十字架にかけられ殺されてから復活したという奇蹟が重要だとしたら、仏教は長いことかかって悟りを開いた仏陀が、結局自分がずっと考え続けてきたことが全てであり、それが自分というものだ、それを信じて精進せよという穏やかなものだという気がしてきました。

 200人余りの檀家のお布施の記帳を読み上げてから、体の具合がずっと悪かったけれどやっとよくなられたご住職様が語られた御説法は「キリスト教と仏教」でした。何という巡り会わせか、これが仏教の根幹をなしている縁というものかと思いながら聞いたお話はある尼僧様のことで、大学の法科を卒業してからカトリックの修道尼になり北アメリカやヨーロッパの修道院を巡ってから、愛知県の尼僧習練所に入り青山俊董師の薫陶を受け得度して仏教の道で精進しているという方だそうです。青山師は五歳で寺に入門し、尼僧として仏法に人生を捧げてきた方でいろいろなお言葉を読んで、今日という日に万福寺に参詣して御説法を聞き青山師のお名前を知ってお言葉を読むということができたことに感謝しています。

 「因」に何の「縁」を加えるかで「果」は変わる。今私は私のところに来て下さる外国人に着物を着せて柴又を案内し、仏教彫刻を見てもらうということに何を加えたらいいかと考え続けています。キリスト教は「原罪」original sin 仏教は「縁」fate,  karma, linkだと、ご住職がおっしゃって、キリスト教の方が冷厳な感覚なのだなと思いながら、修道尼となって世界中を回っていた方が日本に帰ってきて仏教を学び尼僧となった背景がわかる気がします。

 青山師のお言葉を読んでいます。「過去を心のお荷物として背負い込まず、未来を抱き込まず、前後裁断して今日只今に立ち向かえ」 「その今日只今がわが心にかなうことであろうとなかろうとにかかわらず、姿勢を正し、腰を入れて、前向きに取り組んでいけ。失敗が人間を駄目にするのではなく、失敗にこだわる心が人間を駄目にするのであり、失敗を踏み台として前向きに取り組むところにのみ、過去を生かし、未来を開くカギもある」「いついかなる状態の中に投げ出されても、そこを正念場とし、逃げず追わず、ぐずらず、腰を据えて取り組んでゆきたいものです。結果は問わない。そのことにどれだけの努力を払ったかだけを問うのです。心のこもらない多くのものより、わずかでも真心のこもっている方がはるかに素晴らしい。何故にこの体を大切にせねばならないのか。この体を何に使おうとしているのか、大切なのはこの一点なのです。」「命というのはいま、いま、今の連続です。いまここを、いただいた命に相応しい生き方として選んでいく。そのことで人間が磨かれ、人間としての根が深まっていく。そして深まるほどに、足らない自分というものに気づいていく。生かされた命ということが本当にわかってくれば、自ずからそれに相応しい生き方をしないではおれなくなる」「参学し続ける、参究し続けるという時間を掛けないと”老い”は来ない、”熟する”は来ない。具体的な生活の中でずっと温め続けて行く。悲しみ、苦しみは[アンテナを立てよ]という仏様からのプレゼントだから、アンテナさえ立てていれば、必要とする人や物事に瞬間にでも出会えるし、立てなければ生涯一緒にいたって真に出会うことも、そこから教えを得ることもない。」煩悩のないところ、悩みや苦しみや迷いのない所には、悟りも喜びの世界もないということです。人生のよき師、善き友、良き教えという最高の媒染によって、苦悩という、泥という私の素材を輝かしいものに変えていかなければならない。悲しみの上に、人は輝く。ふと宮城で滑った羽生選手の事を思い出しました。

 

 前に若い俳優がヨーロッパを電車でずっと旅をする番組を見ていて、ハンガリーを巡っていた時、四方を他国に囲まれていて他民族が入り込みやすい土地だったため、自分をしっかり守り、味方の振りをする者を見分けなければならなかった、だから自他の境を明らかにしたりアイデンティティの一つである掟をしっかり持つ気風が残ったったのだろうと彼はいいます。ハンガリー人にとっての人間関係とは、互いの自分らしさを積極的に守りあうことで、「自分を殺さない協調性」という他民族国家の真髄であり、まあまあでもなく、なあなあでもなく、日本の「消極のよさ」とは本当に真逆なのです。ヨーロッパのゲストが来た時冷静さ、自分を見せないクールさをよく感じるのだけれど、ドイツの旦那さんはだから表情をくるくる変える面白いアジアの奥様を選んだと言っていたことがありました。

「自分がいかに知識がないか、知らないことがたくさんあるかを知ること。それしか自分を客観視できる力を鍛える方法はない」ビートたけしが著書にかいていました。日本の中だけにいるのではなく、外国にいたり外国人と交流していると物凄い緊張感があるし、無知だから進んでいっている気もしますが、それに加えて、人生には表裏がありその陰影がわかりその行動が許せると思えるようになるかどうか、人生を正視できる勇気を持てるかどうか、曽野綾子さんの問いかけです。難しい、厳しい問題です。「要するに続けられるというのは、打ち勝っていくということ。満足のいく条件など一度もなかったけれど、その中で相手が満足のいく答えを出していく。」

 ハワイから来たフィリピンの4人のゲストのうち一人は高体重で、暑かったしひで也工房の紫の浴衣を着せて夫が兵児帯を締めてくれたけれど、なかなかうまくいかず直し直し柴又まで行き、彼はみんなの写真をたくさん撮って、桜がちょうど見ごろで女性陣はとても綺麗でした。久しぶりにみんなアイスを食べ、電車を待ちながらいろいろ話をしたら、ふっくらした彼はジブリが大好きで「千と千尋」や「トトロ」の歌を歌ってくれ、ナイーブで優しいゲストだなと感じたし、だから京都のひで也さんの紫が良く似合ったのでしょう。ホノルルでタクシードライバーをしている彼は池袋からレンタカーを借りてここまでやって来て、東京の道路は危険だと笑っていたけれど、日本に来て二日目に私の体験を選んでくれて、これから大阪京都など二週間かけて回るそうです。

 予約のサイトに135㌔と書かれると本当に何を着せていいか悩むのだけれど、今日も何とか最後ティーセレモニーをして、心からの笑顔で別れることができました。明日は雨だというけれど、五十代の夫婦が来てくれます。雨ゴートを着てスリッパを持って、八分咲きの桜を楽しみましょう。