君にしかできない 

 雨がひどくて柴又へ行けなかった日はとても残念なのですが、でも体は格段にらくです。二日続けて4人ゲストが来て、午前中は卒業式の袴を着つけ、雨の中柴又を案内して帰ってくると、夜は口がきけないほど疲れます。大丈夫かな体がもつかなと心配しながら一晩寝ると何とか回復し、また準備をするのですが、使ったたくさんの着物を畳んでいると、やはり勇気が湧いてきます。着物が好きというより、着物に憧れてやって来て、初めて着物姿になるゲストの嬉しそうな姿を見るのが生き甲斐で、自分のもの娘のもの皆さんからいただいた大事な着物たちを手入れして、お見せする時が一番わくわくします。買うわけじゃないんだから、好きなものを好きに着て見てというのだけれど、あれこれ迷うゲストは多いのです。

 エアビーの体験を始めたころは、ヘアメイクの方を頼んでいたので髪を結ってもらって訪問着を着せて四人位で歩いて居ると、「まるでお練りね」と冷ややかに言われたことがありましたが、自分達で結い合ったり私がハラハラするようなアップにしたり、七五三の髪飾り付けたり、箸一本でロングヘアを束ねたり、自由にしてもらうようになると、着物と相まってびっくりするような斬新なヘアになるのです。決めつけたり独占したり自分を出し過ぎてはいけない、私はいまだ完璧に綺麗に着付けられることはなかなかないけれど、着付け教室で習った方が着付けたきつく揺るぎもない着物姿は意外と余裕がなくて、ほんのりした着物の美しさが出ないとこの前つくづく感じたのです。

 着物を着るということには、その人の人生が現れます。いつまでこの仕事が続くかわからないから、支障が出ない範囲で帯も帯揚げ着物もゲストにあげていますが、十二単の姫様が手描きでかかれた塩瀬の帯を昨日アメリカの女の子が持って帰ったけれど、結城紬に手描きの塩瀬の帯を締めたら、本当に「女一人」という歌の歌詞そのものになってしまう、でもゲストがそれを選択すれば私はその通りの着物姿にゲストを変えます。贅沢なひととき、雨降りで外に出られないゲストに、私は普通にデパートで買ったら百万円するであろう振袖を着せ、精一杯写真を撮り、抹茶を楽しんでもらうのです。ここにわざわざ来てくれるゲスト、外国人に着せて下さいと箪笥いっぱいに入った両親の着物を持ってきたり、地方都市から宅急便で何箱も送ってくださる方々、最近は私の作家物の着物も着てもらうのですが、それをオーストリアのママが着た時、明らかに私より綺麗で品があって、始めて着る着物なのに、これだけママを輝かせることができる着物の力にあらためて驚いています。

 結局、着物が一番喜んでいます。私は着物を喜ばせることができる、アメリカのクリスが来る前にカナダの近くに住むおばさんと写っている写メを送ってくれて、それを見てなにか魅かれるものがあり、神戸から送ってもらった古い黄緑色の毛糸の茶羽織をおばさんに差し上げてと渡したのだけれど、遠い遠い雪深い国に、神戸の叔母様の愛用品が届いたということが縁だなと思うのです。

 

 コロナ禍でステイホームしていたときの記憶がいつしか薄らいでしまっていましたが、ちょうどその頃にパソコンの調子が悪くて、仕方なく手書きでノートに書いていたものが出てきました。読んで見るともう二度と外国人に着物を着せることはないだろうと悲観的な文章が続き、2年以上もがきながら、ここをクリアできる何かが欲しい、私でできること、正しいことを正しくやり続けないと美しいものが残らないなどと書かれているのです。「手と頭と心が歩調をそろえていると、奥深い所で眠っていたものが目を覚ましたが、それを目覚めさせたのは遊びでもなければ夢でもなかった。それは人間に対する敬意であり、迫りくる危険であり、そして知恵だった。心の闇に打ち勝つにはどうしたらいいか。人は自分で自分の運命を決めるわけにはいかない。受け入れるか拒否するかだ。疫病は大規模なバランス、つまり宇宙の均衡を維持しようとする一つの運動だとしたら、邪なるものの臭いを嗅ぎつけ、均衡を正そうとしている。」「生きたいと思う、その願望に際限はない。限りない富、絶対の安全、不死、そういうものを求めるようになったら、その時人間の願望は欲望に代わるのだ。」「危険な暗黒の時代に入ったと思っていたコロナ禍の日々、陽の光が薄くなっている。コロナウィルスが終息したと思われる今、恐怖が彼の内部にあり、今度の災いには明らかに中心点ともいうべきところがあって、そこから良いものがどんどん流れ出ている。私たちのいるこの世界には、どこかに穴があいていて、そこから光がどんどん出て行っている。」

 いろんな文章が残っているのに驚きながら、ページをめくっていると、「アートはそれが自らのアイデンティティを持つとき、永続する」という言葉がありました。馬場あき子さんと友枝真也さんの対談集「もう一度楽しむ能」の中の文章、”私は能を見ることによって歴史という太く重厚な時の流れが、実は個々の顔を持った人間の動きであることを如実に知ることになった。それは歴史という訳のわからぬ強いベクトルの動きの中で、切々と生きていた生身の人間だった”に強く心が動きます。

 「この世のあらゆるものは意思を持っている。例えば風は意思を持っている。風は一つのおもわくを持ってあなたを包み、あなたを揺さぶっている。風はあなたの内側にあるすべてを承知している。風だけではない、あらゆるものを、彼らは私たちの事をとてもよく知っている。何処からどこまで。ある時が来て、私たちはそのことに思い当たる。私たちはそういうものとともにやっていくしかない。それらを受入れて私たちは生き残り、そして深まっていく。何よりも素晴らしいのは、そこにいると、自分という人間が変化を遂げることで、変化を遂げない事には私たちは生き延びていけない。」

 「高い場所に出るとそこにいるのはただ私と風だけです。他には何もありません。風が私を包み、私を揺さぶります。風が私というものを理解します。同時に私は風を理解します。そして私たちはお互いを受入れ、共に生きて行くことに決めるのです。私と風だけ―他のものが入り込む余地はありません。私が好きなのはそういう瞬間です。」

 

 一番大事なのは自分の中にどれだけの抽斗や積み重ねがあるかということだけれど、でも頭の中に、心の中に、沸々と湧き続ける感情があり、思いがあり、外に出たがっているのだからその方法を考え続け、紡ぎ続ければいいのです。